・岸田今日子「夏休みの日記」(1)
この日記を確認しようと思ったのは10月28日付「岸田衿子・岸田今日子『ふたりの山小屋だより』(1)」で述べたような理由からで、分量や校訂方針などは10月29日付「岸田衿子・岸田今日子『ふたりの山小屋だより』(2)」及び10月30日付「岸田衿子・岸田今日子『ふたりの山小屋だより』(3)」にて触れました。昭和22年(1947)7月11日(日)から8月31日(日)まで52日にわたるものです。7月15日(木)に北軽井沢に入り、8月29日(金)に東京に戻っています。
噴火に関する直接の記述である8月14日条は、既に言及したように「早川由紀夫の火山ブログ」の2006/09/19「岸田今日子の浅間山1947年爆発体験」に引用されています。但し早川氏の引用には何箇所か変換間違いがありますので、改めてここに抜いて置きましょう。169頁1〜7行め、
八月十四日 晴のち小雨
午後一時の電車で東京から後藤さんと桐山さんが来るはずなので、迎へに行かうとし/て居た時、水の寄せるような地鳴りがして父と二人、「浅間だ」と外へ飛び出した。裾/一ぱいまで見える門まで出ると、もう、めん羊の背中に似た煙が相当高くふき上げられ/て居た。藁帽子をかぶって駅まで行くと、途中から夕立のように大粒の砂がザア/\降/って来て、木の葉はみるみる灰白色に変った。一時間ほどで降り止んだが、後藤さん達/と一緒に帰ってみると家中ザラ/\で、早速三人で大掃除しなければならなかった。
「後藤さん」の右脇上詰めに「註1」、「桐山さん」に「註2」とあって、8行め下詰めで小さく「註1、註2 自由学園の同級生」とあります。
私は昭和22年(1947)夏の浅間山を巡る動きを、7月・8月を中心に出来るだけ詳しく確認して置きたいと思っています。そこで私がこの日記で特に注目したいのは、毎日の天候が記載されていることです。
噴火時の天候が晴であったことは、直後に沓掛から撮影された噴煙柱が、強い日差しを浴びていることから察せられたことですが、その後の捜索活動にも注目するとき、翌日以降の天候も知って置きたいのです。捜索活動は「朝日新聞」東京本社版・大阪本社版・「毎日新聞」「讀賣新聞」によって大体の経過は分かっています。それがどのような環境の下に行われたのか、天候が分かれば解し易くなります。
当時の天候については、南麓の長野県北佐久郡軽井沢町追分、南南東約8kmにあった軽井沢測候所の記録が、どこかにあるでしょうから探せば見られるのでしょうけれども、差当り北東に約10km(北軽井沢駅)、山の天気は変り易いので幾ら近くても麓とは違っていることもありましょうけど、間近に浅間山を望む山裾での記録も、十分参考になるだろうと思うのです。(以下続稿)