・敏達天皇十二年(2)
文庫版第七巻306〜309頁(頁付なし)に掲載される「厩戸王子 関連年表」は、誰が作成したのか示されていないが、作者の周辺で作られたには違いないから、以下対照して置こうと思う。
|西暦(3字分)|和暦(4字分)|天皇(2字分)|年齢(2字分)|おもなできごと(22字分)|そのほかのできごと(10字分)|
という項目で、「年齢」欄の右欄外に太い矢印があって「厩戸王子の年齢(かぞえ年)」とある。
昨日確認したように厩戸王子の年齢も、数え年であった。五三八・五四〇・五七〇・五七二年は厩戸王子に直接関係ないから省略するとして、その次に
五七四 | 敏達三 | 一 | 厩戸王子(聖徳太子)が生まれる。 |
とある*1。
しかし、何だかおかしなところもあるのである。昨日の続きを見て行こう。
その後蘇我毛人は、文庫版第一巻76頁、百済から来朝した日羅に同行してきたという新羅人・淡水に会う。79頁「厩戸王子のおられる宮」である「池辺の雙槻宮」に呼ばれて出向くと、「女孺*2」が現れて、83頁1コマめ「わたしは百済から来た僧 日羅に会いたいのです」と求められるまま自分の馬に乗せて、路傍にて日羅を待つ。やがて淡水らに護衛された日羅が現れるが、厩戸王子に酷似する女孺を指差して日羅は、91頁1コマめ「そこにいる童子は人にあらず*3」と言う。日羅らと別れて後、女孺は、95頁1コマめ「日羅には…もう死んでもらいましょう」と言うのである。そのまま記憶をなくした毛人が気付くと、98頁、池辺の宮で朝を迎えていたのであった。そして100頁、厩戸王子の両親に対面し、102〜103頁、厩戸王子に誘われるまま、それぞれ自分の馬で周辺を走り回るうちに、112頁4コマめ「厩戸王子の母 穴穂部間人媛の同母弟である」穴穂部王子と対面するのである。
・文庫版第一巻104頁、この頁の文字は全て蘇我毛人の心内語であるが、3コマめに「ここにいるのは11歳になったばかりにしては大人びた口をきくが/無邪気で快活なまさしく少年そのものではないか」とある。
・文庫版第一巻113頁7コマめ、穴穂部王子の厩戸王子に対する台詞にも「おれはな そなたを11やそこらのガキとは思っておらんからな」とあって、1歳加算されている。
これがいつのことかというと、次の場面、文庫版第一巻117頁5コマめ、蘇我毛人が雪の降っている庭を眺めながら「また雪か 寒いはずだ」と言い、6コマめ以下118頁4コマめまで、心内語が続く。
毛人:(早いものだ 明日は新しい年があける/この1年はいろいろな事があった/厩戸王子との出会いがなんといっても一番の事件だったが……/しかし穴穂部王子と出会ったあの秋以来/池辺の宮へは出むいてはいない/朝参で時々お見かけするが/これといって言葉をかわすわけでもないし/なにやらホッとするような/気が抜けるような……)
最初の出会いが「この1年」のこととして回想されているから、敏達天皇十二年(583)の年末である。穴穂部王子と会ったのが「秋」である。だとすると「11歳」や「11やそこらのガキ」ではなくまだ十歳のはずである。
いや、数え年では皆が新年に歳を取るのだから「×歳になったばかり」という発想はないのではないか。皆が正月には「歳を取ったばかり」なのである。もちろん、秋に「11歳になったばかり」などということはあり得ない*4。
さて、庭を眺めて感慨にふける毛人は、日羅を暗殺した淡水に声を掛けられ、匿うことになる。
この日羅暗殺だが、文庫版第七巻「厩戸王子 関連年表」を見るに、306頁、五七四年の次に、
五八三 | 敏達一二 | 一〇 | 日羅が来日するが、この年殺される。 |
とある。日羅の暗殺は敏達天皇十二年(583)十二月のことで、時期は合っている。
その日の朝参で、厩戸王子は日羅に同行していた百済人を下手人に仕立てて群臣を丸め込んでしまうのだが、それを見ていた蘇我毛人は、文庫版第一巻128頁4コマめ、
毛人:(なんということだ 朝廷中の大人が11歳の王子の/提案にこんなにもしがみつくとは!! )
と思うのである。ここもまだ大晦日のことであり年が明けてないのだから「厩戸王子 関連年表」に示された数え年の通り、まだ十歳のはずである。(以下続稿)