昨日の続き。次に『怪談の心理学』の記述を見て置きましょう。
この本については2014年1月3日付「赤いマント(73)」に取り上げた際には書影が貼れなかったのですが、今、確かめて見ると表示出来ますので、遅ればせながら貼って置きます。
- 作者: 中村希明
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1994/10
- メディア: 新書
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それはともかく、第一章の細目は2014年1月5日付「赤いマント(75)」に示しましたが、「「白い手、赤い手」と河童のフォークロア」の節のうち、41頁12〜15行めに、
さて、戦局が悪化して、日本中の都市が爆撃を受けるようになったので、小倉にあった/筆者の家族も、曽祖父が村医をしていた県境の山村に疎開した。いままで預けてあったと/いう古めかしい薬簞笥がもどってきたが、村の古老はその中に曽祖父が得意にしていた金/瘡の膏薬の秘伝が隠してないかよく調べるようにいうのだった。‥‥*1
とあります。「日本中の都市が爆撃を受けるようになったので」というのですから昭和20年(1945)になってからのように思われますが、昨日見た『怪談の科学 PART2』には「私がまだ中学一年生のとき」とあります。2014年1月7日付「赤いマント(77)」に引いたように中村氏は「終戦当時には旧制中学の二年生だった」ので、疎開は昭和19年度のことと判断されます。
中村家の疎開に空襲が関係しているとすれば、それは昭和19年(1944)6月16日未明、或いは8月20日の北九州空襲(八幡空襲・小倉空襲)でしょう。「県境の山村」は大分県境・熊本県境・佐賀県境が考えられますがこれだけの記述では分かりません。昨日引いた『怪談の科学 PART2』の「残された母は中学に入ったばかりの長男と幼い弟妹をかかえ」という記述からすると中村氏はこの疎開に同行しているようにも読めますが、どの県境であっても小倉からはかなりの距離があります。転校したのでしょうか。それとも北九州に残って寄宿舎に入り、休暇に長期滞在していたのでしょうか。(以下続稿)
*1:ルビ「きん/そう」。