瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(32)山本桃村⑥

 未だ梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』を精読する余裕がないのですが、この後で山本桃村の名が出て来るのは11月4日付(27)に引いた、大正8年(1919)の「満洲の日記」の、書体についての記述のみのようです。すなわち昨日までに引いた、大正6年(1917)1月頃に京山小圓の一座を退座して、2月に副支配人であった立仙氏と浪花節語り6人を率いて岡山県広島県を3ヶ月巡業、というのが『浪曲旅芸人』により明らかになった、山本桃村、後の山本禾太郎の浪界時代末期の動向ということになります。
 11月1日付(24)に引いた「妻の災難」が虚構ではなく新婚当時の実際を描写していると信ずるならば、大正6年(1917)6月の入江三郎脱走事件が背景となっています*1から、大正6年(1917)4月か5月に俄仕立ての一座が解散して故郷の神戸に戻って、間もなく結婚して文化住宅に入居した計算になります。
 他の随筆にも「妻」は登場しますが、その他に同居する家族がいる様子はありません。神戸に戻るや、当時は世の中が梅中軒鶯童も云うように好況であったこともあり、世話をする人があって就職と結婚の2つながらに果たせたのでしょう。
 そうすると足掛け「七年」の「食客」生活の起点は、大正6年(1917)1月頃に京山小圓の一座を抜けたのですから、明治44年(1911)に設定されます。本作が明治45年=大正元年(1912)に設定されており、そこで主人公は自ら「新参」と言っていたので、同じ年の春か、前年に加入したとの見当を付けておきましたが、その見当通りになりました。
 11月2日付(25)では、浪界から足を洗ったのを「大正5年(1916)」と仮定して「食客」生活の起点を明治43年(1910)と仮定しました。そうすると明治45年=大正元年(1912)に京山小圓の一座に「新参」であれば、その前に短期間、別の一座に参加した時期を想定する必要がありました。しかしながら、明治44年(1911)加入とすると翌年に「新参」でもおかしくありません。
 尤も、10月19日付(11)本文①に引いた「略歴」では「弟子入り」した「さる大家」のところで「そのまま一座の食客」となっていたように読めますが、京山小圓の一座で「七年」になります。作中の「京山大圓氏」と「私」の関係も師弟のそれではないようです。やはり「さる大家」は京山小圓とは別の誰かで、その一座を退く際に「浪花節語り」を諦め「秘書」として京山小圓に雇われたらしく思われるのです。(以下続稿)

*1:2016年3月5日追記2016年3月4日付「山本禾太郎「妻の災難」(1)」に述べたように、「妻の災難」の記述はかなり事実と異なっています。差当り「6月」ではない(正しくは「7月」もしくは「大正5年11月」)ので「6月」を削除しました。