瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子城(2)

・椚國男『戦国の終わりを告げた城』(2)
 さっそく「造形大の怪談」の本文を見て行くこととしよう。まず68頁3〜6行め、

 山裾にある東京造形大学には怪談が多い。昔は寄宿舎に新入生がはいってくると、先輩が寄宿/舎にまつわる怪談をして怖がるのを楽しむということがよくあったが、それと異なっているのは/悲しい歴史を背負った土地のためであろうか。以下は同大学を三年前に卒業した賀來尚樹さんか/ら教えてもらったものなどである。

との前置きがある。
 この「三年前」がいつか、が問題であるが、3〜5頁「はじめに」の冒頭(2行め)に「 一九九〇年もあと二か月ほどになったが、‥‥」とあり、261〜263頁の「一九九〇年一二月末日」付の「あとがき」に、261頁11行め〜262頁8行め、

 一月八日、七年前に『古代の土木設計』を出していただいた賀来社長さんから「もし、八王子/城についてお書きになるのでしたらどうぞ」という言葉をいただいた。それが本書執筆の契機で/あり、二月二十一日に社長さんと前の本の編集でお世話になった間宮暁さんを八王子城に案内し/【261頁】た。上の道、引橋、御主殿跡、石垣群、山王台を経て松木曲輪に登り、昼食のテーブルについた/とき、「この城でしたらぜひ書いてみてください。甲野先生のことや自然もいれて…」といわれ、/たまらなく嬉しかった。
 前からの仕事などあって四月に計画を立て、五月中頃から書きだしたが、自分独自の研究と異/なり目を通さなければならない文献などが多く、下書が一通り済んだのは十月も末。それからの/手直しや補筆もたいへんで、清書にはいるところで、落城四百年の年は終わろうとしている。か/つてないほど慌しい一年間であったが、この年にもっともふさわしい生き方ができた充足感にひ/たっている。

とある。「あとがき」の日付からしても平成2年(1990)執筆時点から「三年前」というつもりであろう*1から、賀來尚樹は昭和62年(1987)3月に東京造形大学を卒業している計算になる。休学や浪人等を挟んでいないとして、昭和39年度生という勘定になる*2
 そこで注意されるのは「あとがき」に見える「賀来社長さん」である。奥付には「発 行 者 賀 來 壽 一」とある。――賀来寿一(1931生)は賀来倫二郎の子で女優賀来敦子(1938.4.14生)の兄、吉川英治(1892.8.11〜1962.9.7)の長女・曙美(1942.1生)の夫。講談社の社員であった昭和36年(1961)夏に結婚を申し込み、昭和37年(1962)2月に結婚している。『氷の国から火の島まで―<最初のアメリカ人>をたずねて』という著書が昭和43年(1968)に講談社から刊行されている。その後、吉川英治と縁の深い六興出版に移ったらしい*3
 そうすると賀來尚樹は賀来寿一夫妻の長男・吉川英治の孫に当たるのではないか。――平成12年(2000)の「電子情報通信学会技術研究報告 信学技報 Vol.100 No.207」(2000年7月14日発行・電子情報通信学会・80頁)の「EMCJ2000-27 自由空間型EMCサイトの国際標準化に伴う技術的課題の合理化/30MHz〜18GHz帯CENELEC草案における旧概念AFとNSAの廃止提案」の発表者10名連名の最後に賀来尚樹と賀来壽一が並んで、ともに所属は「(株)パックスEMC」として見えている。出版や造形とは無縁の業界だが、並んで同じ会社の所属として同じ名前の1人ではなく2人が見えていることに、関連を見たくなってしまうのである。
 平成17年(2005)10月15日(土)14時〜16時に慶應義塾大学三田キャンパス(南校舎423教室)にて開催された「慶應あるびよんくらぶ 土曜教養講座」の「第17回講演会」にて「考古学でも解けない謎」との演題で講演した「賀来壽一氏(考古学者)」は、掲載されている写真や「自身も考古学研究家で、また多くの学者を支援してこられた賀来壽一氏」という紹介から見ても、六興出版元社長に間違いないと思われる。(以下続稿)

*1:ロッコウブックス『古代の土木設計』は昭和58年(1983)11月刊。

*2:卒業が刊行年から逆算して昭和63年(1988)3月の可能性もあり、その場合、昭和40年度生ということになる。もちろん、浪人・休学・留年等の事情により若干遡る可能性も考えられる。

*3:昭和51年(1976)には六興出版の社長として名前が出る。