昨日の続きで、新聞通信調査会HPの「メディア展望総目次(年)」から、内海紀雄「一通信社記者の「昭和」~その軌跡を手紙と日記に見る」の(Ⅴ)から見て行きましょう。要領は5月5日付(2)に同じ。
・第585号(平成22年10月1日発行・32頁)14~16頁「「戦争体制」に編成替えする同盟通信」(Ⅴ)
14頁上段1行め、1節め「取材部門統一の機構改革と人事」昭和16年(1941)12月4日付、同盟通信京城支社長浅野豊宛の親展の手紙から、12月(5日)の同盟通信本社の人事について。下段9行め、2節め「「もうすぐ戦争でしょう」と手紙に記す」同じ手紙に開戦を予想。15頁上段7行め、3節め「「連合艦隊は戦闘の配備に」」、上段左に写真「「昭和十六年十二月四日」と記した封筒(左)/と「戦争になれば(もうすぐ戦争でせう)…」/と書いた同日付の父の手紙(右)」。下段8行め、4節め「同盟、開戦日は察知できず」、下段左に写真「同盟調査部の忘年会。前列右から2人目が内海朝次郎、後列左端が/黒沢俊雄氏、右へ1人置いて武者幸四郎氏=昭和15年暮れ、新橋・/太田屋で」。16頁中段1行め、5節め「「アメリカとの戦争に勝ち目はない」」親戚の山下宏、及び妻(1991歿、享年82歳)の証言。下段10行め、6節め「食料など生活物資不足に喘ぐ」浅野豊宛書簡から生活物資不足についての記述を引く。
・第586号(平成22年11月1日発行・40頁)14~16頁「「真珠湾勝利の一報毎に沸き立った編集局」」(Ⅵ)
14頁上段1行め、1節め「開戦の日まで秒読みに」昭和16年(1941)12月5日から7日までの日記。5日の人事異動で出版部長兼務を解かれ調査部長専任に。下段19行め、2節め「「日米戦争勃発」と本社から電話」12月8日の日記、但し招集を受けて駆けつけた本社(電通ビル)編集局での様子を記した部分は現存せず、後年の日記に回想あり。15頁上段左に写真「忙中閑―同盟調査部ハイキング。中央無帽が内海朝/次郎(昭和16年4月3日)」。中段14行め、3節め「秘密保持にピリピリ」下段左に写真「昭和16年12月8日夕、開戦の日の調査部会で父が説明し/た調査班の担当を示すメモ。各担当者が傍受電や取材網で/集めた秘密情報を整理、分析したのだろう」。16頁上段19行め、4節め「「長期戦にしては少し興奮し過ぎ」」昭和16年12月30日付浅野豊宛書簡、昭和17年(1942)初頭のノート「古野社長一家言集」から戦争の見通しについて。下段6行め、5節め「「政治がないに等しい」と批判」昭和17年2月14日付(17日消印)浅野豊宛書簡。
・第587号(平成22年12月1日発行・40頁)14~16頁「有力地方紙のチェーン化―古野同盟社長の構想」(Ⅶ)
14頁上段1行め、1節め「社長から「地方紙連盟」への出向話」昭和16年12月30日付浅野豊宛書簡、編集局勤務を希望するも12月初め、中旬から下旬に掛けて体調不良もあり新設の地方紙連盟の事務局長をやるよう命じられ、承諾。中段16行め、2節め「中央紙対策――軍師・古野氏の戦略」昭和17年(1942)1月、同盟通信が市政会館に引っ越し、昭和16年5月発足の日本新聞連盟と同居。15頁上段8行め、3節め「編集局への異動を希望したが……」昭和16年12月14日付・昭和17年2月14日付浅野豊宛書簡。上段左に写真「新聞連盟事務局長に出向した岡村/二一氏(前列)、同業務部長の塚/村敏夫氏(後列右)。その左は政/治部長福田一氏(戦後、衆議院議/長)=昭和13年暮れ」。中段15行めに「私学出身、現場のたたき上げの記者」とあって東京の私立大学を出て直ちに新聞界に身を投じたようだ。中段19行め、4節め「結局、幻に終わった出向話」昭和17年2月11日、日本新聞会発足。下段左に影印「父がノートに記した「古野社長一家言集」万年筆/で4㌻にわたる(ページの右端部分を省略)」。16頁上段13行め、5節め「同盟、国通の人事を巡る情報」昭和17年3月7日付浅野豊宛書簡。中段15行め、6節め「親友の本社帰還を社長に要望」昭和17年3月7日付浅野豊宛書簡。下段16行め、7節め「古野流「公平な人の育て方」」「古野社長一家言集」。(以下続稿)