瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子城(4)

 昨日の続きで揺籃社ブックレット8『高尾山と八王子城の「忌み山」の章、「今も残る怪奇」の節の最初の段落を引いて見よう。31頁5〜11行め、

 「幽霊を見た!」とか、「鬨の声を聞いた!」という話は今でもあり、御主/殿の滝下は民放が数回取材にみえた心霊スポットである。幽霊話が多いのはこ/の滝の付近と三、四年前まで東京造形大学があった山下曲輪付近で、一〇数年/前に採録したが何例もあった。同大学には滝下で十二単の女性と甲冑武者と/白装束の幽霊をみたという学生がおり、泊り込んで夜更けに石像を彫ってい/ると誰かがじーっとみつめているような気がしたので手を止めてみると、山下/曲輪の上に甲冑武者のシルエットが立っていたという学生もいる。*1


 「三、四年前まで東京造形大学があった」とあるが、10年以上前の平成5年(1993)4月に全面移転が完了しているから、建物が21世紀に入ってもまだ残っていたのであろう。
 「一〇数年前に採録した」というのは3月5日付(2)に紹介した平成3年(1991)刊『戦国の終わりを告げた城』の「第三章 忌み山となる」の「造形大の怪談」の節に「以下は同大学を三年前に卒業した賀來尚樹さんから教えてもらったものなど」とあるのが、それだろう。すなわち、ここに要約されている話は、3月6日付(2)に引いた「造形大の怪談」の前置きに続いて、次のように紹介されていた。68頁7〜10行め、

 その第一は、見た学生から直接聞いたのではないらしいが、十二単*2の女性と甲冑武者や白装束/の幽霊が御主殿の滝の下に出たという話である。去年も見た者がいて、それを聞きつけた民放テ/レビが二回取材にきたという。ここは落城時は淵になっていて、喉を突いた武士の妻女たちが身/を投げたところで、尚樹さんによると霊媒師たちが最も危険を感じる場所であるらしい。


 「去年」というのは、3月6日付(2)に確認したように執筆時期が平成2年(1990)だからその前年、平成元年(1989)であろう。しかしこの頃のことはネット上には情報が少なく、どの局の何という番組なのかは分からない。
 「石像」云々は「造形大の怪談」の68頁11行め〜69頁2行め、

 第二は、グラウンドの西端にある石彫制作棟での怪である。学生たちが学校に残っていられる/時刻は午後八時までであるが、この棟には寝具や炊飯器具を持ち込んで泊りこみで制作する学生/がいるらしい。そうした学生の体験であるが、夜中に一人でカチカチ彫っていると、誰かがじー/っとみつめている気配を感じたので、手を止めて顔をあげると山の稜線に甲冑武者のシルエット/が立っており、ぞーっとしたという話である。‥‥


 東京造形大学の元八王子キャンパスの構内図などはネット上には見当たらない。グラウンドは校舎が並んでいた一画の西南西、城山川と花かご沢に区切られた一画で「近藤曲輪(?)」と呼ばれていた場所に造成された。東京造形大学の敷地はここまでで、その西南西、花かご沢の対岸の「山下曲輪」は敷地外である。グラウンド造成については『戦国の終わりを告げた城』11〜28頁「第一章 八王子城と甲野先生」の19頁5行め〜23頁9行め「二度目の破壊」の節に、20頁2〜5行め、

‥‥。今度は来年四月開校の東京造形大学のグラウンド造成による破壊/だった。
 つぎの日曜日に破壊状況を甲野先生や渡辺教諭などと見に行った。その場所は大学用地西部の/竹林の上で、近藤曲輪と呼ばれているところだった。‥‥

と回想されている。「甲野先生」は考古学者甲野勇(1901.7.31〜1967.10.15)、「つぎの日曜日」は昭和40年(1965)11月14日。このことは『高尾山と八王子城』46〜50頁、9章め「破壊と保存運動」にも、47頁7〜11行めに「‥‥、その年の一一月には/山下曲輪東側の近藤曲輪(?)が東京/造形大学のグランド造成工事で破壊され、/削られた断面に土塁、空壕、馬防柵が現/れた。*3」と見えている。 
 さて、「石彫制作棟」のあった「グラウンドの西端」とは現在、史跡八王子城跡管理棟がある八王子城山の登り口の、道を挟んで向かい辺りであろう。まさかここから「山の稜線」が見える訳がないので『高尾山と八王子城』にある通り、花かご沢を挟んだ「山下曲輪の上」なのであろう。(以下続稿)

*1:ルビ「とき///ひとえ・かっちゅうむしゃ/しろしょうぞく//」。

*2:ルビ「ひとえ」。

*3:ルビ「からぼり・ばぼうさく」。