瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子城(09)

 揺籃社ブックレット8『高尾山と八王子城32頁1〜2行め、3月13日付(07)に引いた「最もリアリティがある」例に付け足されているもう1例を見て置こう。

‥‥。また、大手門跡近くに寺院を建てようとした僧侶が、反対集会参加者に語った「強い霊圧がありました!」という言葉には実感がこもっていた。


 この寺院建立計画については9章め「破壊と保存運動」の1節め、46頁2行め〜48頁8行め「山裾を襲う開発破壊の波」にも、47頁16行め〜48頁3行め、

 四度目はその五年後大手門跡東側/一五〇メートルで起きた寺院建立と墓地造成の工事である。大手門周辺の歴史/的景観が失われるところであったが、東京経済大学色川大吉教授の奔走で東京/都が買収し、公有地として保存された。


と略述されている。「五年後」は昭和46年(1971)に当たる。
 『戦国の終わりを告げた城』では詳述されている。73〜94頁「第四章 破壊と保存運動と調査」の3節め、78〜80頁2行め「大手門前広場に寺院計画」、79頁7行めまでを見てみよう。

 四度目の破壊は石垣の破壊から五年余り経った四十六年八月に起こった。それまで区内にあっ/た神蔵寺(現法妙寺)がこの地に移転を図ったことからであり、場所は造形大南側の丘陵中腹道/である。ここでは幅が三〇メートルちかくあるので、道と/いうよりテラス状地であり、大きな寺院も建てば、広い墓/地もできる。ブルドーザーは造形大3号館のわきから城山/川を渡ってはいあがり、木や草ごと数十センチ削って整地/した。
 市の文化財専門委員会は上保広吉議長を先頭にこの工事/につよく抗議し、これ以上の破壊をゆるさない方針を決め/た。そのため、造成地は放置されたままであったが、一年/半後に文化庁が条件つきで墓地にかぎって建設を認めたこ/とから現状保存が不可能になり、上保議長は責任をとって/議長職を退いた。一方、諸岡教育長は文化庁の方針にした/がって「文化財専門委員会は諮問機関であるので教育委員/【78頁】会が異なる決定をくだす場合もある」と発言し、四十八年七月七日に墓地建設を認めた。
 こうしたことから、後北条氏研究会・八王子城を調べる会・八王子周辺の城郭址を守る会・多/摩史研究会・多摩考古学研究会の五団体が七月十五日に現地で反対集会を開き、八王子城跡の重/要性や直面している危機を各方面に訴えることを決議した。このあと多摩史研究会代表の色川大/吉東京経済大学教授が副知事などと接渉して危機の打開につとめ、事業者の神蔵寺住職も「この/土地にはつよい霊圧*1がある」として計画を断念し、都が買収し、史跡指定地域外に代替地をえる/ことによって解決をみた。


 その結果、神藏寺(日蓮宗)は東京都世田谷区から八王子市下恩方町に移転し神藏山法妙寺と改称、現地で城山霊園を開園している。すなわち、墓地計画に関しては、法的に問題はなかったが「つよい」史跡保存の訴えに屈して「霊圧」を理由に撤退したとも取れる。最初から「計画を断念」するほどの「つよい霊圧がある」のであれば、そもそも選定しなかったはずだから――別に「霊圧」を信じている訳ではない、こういう理屈になるとの解釈の可能性を示したまでである。(以下続稿)

*1:「霊圧」に傍点「・・」あり。