瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(34)

・法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』(9)
 さて、しばらく本書所収の馬場喜信の論文、第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」の、今後の考察に関わりそうな箇所を取り上げて来たが、最後に215頁12行め~219頁12行め「第三節 浜街道《絹の道》の史跡としての保全と活用への展望」 から幾つか関係する箇所を抜いて置こう。
 216頁3~7行め、

 これまでに《絹の道》をめぐっては、八王子市が《絹の道》を史跡に指定し、「絹の道資料館」を建設し、道了/堂の跡を市立大塚山公園とし、諏訪神社の社殿四棟を文化財に指定するなどの施策を講じ、また、東京都が小泉家/屋敷を民俗文化財に指定し、文化庁が《絹の道》を《歴史の道百選》の一に選定するなど、行政の施策としては、/いわば従前といってもよいほどである。しかし、浜街道そのものの現状を見れば、そのほんの一部分が《絹の道》/として保存されているだけである。


 217頁11行め~219頁1行め、前後1行分ずつ空けて「《絹の道》探訪の一〇の見所」と題して、鑓水の《絹の道》周辺の歴史景観を探るポイントとなる10箇所を箇条書きに列挙する。道了堂に関係する①②⑧だけ抜いて置こう。217頁13~17行め及び218頁14~15行め、

 ① 鑓水峠の展望 ここはかつて十二州の山々を見晴らすところといわれた。まずその展望を楽しもう。そして/足下に目を移せば、一面に広がる住宅地が二〇世紀最終四半期における東京の巨大化の跡を見せている。
 ② 大塚山公園 生糸商人たちの盛時を偲ばせるわずかな痕跡を伝える道了堂跡。現地に立って、その地形(ちぎょう)から、あの「大塚山道了堂境内之図」に描かれていた往時の伽藍のありさま、かつての境内全域の様子を想/像しよう。
 ‥‥
 ⑧ 御殿橋 大栗川に架かるこの橋の欄干に「大塚山道了堂境内之図」がはめ込まれている。この図は、大塚山公/園にこそ設置しておいてほしいものだ。


 ②に見える「地形」についてだが、前回の最後の引用にあった馬場氏のコメントにあった通り、前々回取り上げた寺院としての復興計画が流れたからこそ、道了堂跡地の「地形」が保存されることになったことは、確かであろう。
 廃屋となった道了堂はやはり建て替えることになったろうし、庫裡などは鉄筋コンクリートで再建されることになったろう。北野台から車道が通じて石段の下まで舗装されることとなり、駐車場も造られただろう。それ以上に、収入源として周囲の森林を切り開いて墓地が造成されていただろうから、地形の改変も相当なものになったことだろう。
 ただ、寺院があって管理がしっかりしておれば、心霊スポット化して石造物の損壊が行われるなどと云ったことは抑止出来たのではないか。
 もちろん、史跡として《絹の道》と大塚山公園・道了堂跡を訪れる人の方が多いだろうと思う。しかし、少なからぬ人間が心霊スポットとして、夜間に肝試しに出掛けて、その様子をブログの記事や TwitterInstagram に写真や動画、YouTube などに動画を上げている。その中には同じ鑓水でも別の場所で起こった立教大学助教授教え子殺しの現場が道了堂近くと云う誤った情報を信じている人も少なくない。史学の人たちはこういうのは相手にしないのだろうけれども、一部、破壊行為等を伴っている以上、もうそろそろ、そっちの人間にも、道了堂跡についてその意義など正確な情報を伝えて行く努力をするべき時期なのではないか、と思うのである。――当ブログの記事では細か過ぎ、長過ぎるので書き直す必要があるけれども。(以下続稿)