瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

昭和50年代前半の記憶(1)

 私は父の転勤に従って3つの小学校に通ったのだが、初めの2年間通った小学校の頃、いろいろと世間を理解し始めて、それが世間とはこういうもんだという一種の刷込みになったのである。
 小学校は踏切を越えて中学校の脇の坂をさらに上り続けた山の中腹にあった。班登校で15分くらいかかったように思う。その、坂の途中にあった中学校の生徒が、私にとっての成長モデル(?)になったのである。
 学ランに丸坊主だった。と云って、全く映像としては思い出せない。今、野球部員でも丸坊主じゃなかったりする時代に、男子生徒は丸坊主、などと云う学校が存するのかどうか、しかし当時は昭和50年代、40年近く前で、場所は地方都市の、七中と云うナンバースクール(?)であった。
 だから、私はそのまま中学に入れば丸坊主にするもんだと思ったのである。そして、私は小学2年生のときに(1年生だったかも知れないが)先取り(?)して実行したのである。
 先取りしたのには、年長者への憧れと云った漠然とした理由だけではなく、もっと切実な理由があって、――幼稚園児時代、私はオカッパに近い髪型で、幼稚園は制服があったから良かったが、何か親戚に慶事があったりすると、フリルの付いたような服を着せられていたのである。別に何の疑問も持たずに親の用意した服を着ていただけであったが、あるとき、これはおかしい、と気付いてしまったのである。それが、小学校を入学しての同級生たちの姿であり、その先の、中学生たちの姿であった。
 私が女の子みたいな恰好をさせられていたのは、両親が兄に続いて女児を待望していたからである。不幸にして(不孝にして?)私は男児であったが、非常に可愛らしかった(!)ので、女の子みたいな恰好をさせていたのである。
 私が疑問に思わずにそのまま可愛い恰好を続けていたら、順調に(?)美少年になったかも知れないが、残念ながら疑問に思ってばっさり髪を切って、赤っぽい服を着るのを止して青っぽい服ばかり着るようになって、――そのとき私が黄金色に輝いていた時代は終わりを告げて、私はただの、何だかしゃんとしていない、しょぼい男子になった。
 それはともかく、その中学の制服が学ランだった(今も変わっていないらしく、HPを見るに女子はセーラー服であるが、こちらは記憶がない)ので、ブレザーにネクタイの制服が気持ち悪くて仕方がなかった。幸い、横浜の中学も兵庫県の高校も学ランで、その意味では私は望み通りの青春(?)を過ごしたことになる。*1
 当時の友人にはその後、全く会わない。JR(もちろん当時は国鉄)の最寄り駅には何度か用事があって下りたことはあるが、当時の通学路を横切ったことが、院生時代に1度あるだけである。JRの駅は家から遠いのだが、線路沿いなので家の辺りが車窓から見えるのである。当時、朝、父と兄とジョギングしていた(当時はジョギングとは云う言葉がなくてマラソンと云っていたが、もちろん往復1kmもない)八幡様の森も見える。先日、ふと思い付いてGoogleの地図で検索したところ、近所を流れていたドブ川に蓋がされてしまったのはJRの車窓から分かっていたが、当時住んでいた家の前の浅いドブはそのまま残っていた。近所の家で洗い物があると土管から汚水が流れ出て、別にそれを汚いとも思わずに、塀も柵もなかったから、平気で落っこちたボールを拾いに下りたものだった。時にドブ鼠が土管を出入りするところに出くわした。
 何より驚いたのは、当時住んでいた借家が、壁が塗り直されて、パラボラアンテナが付いたりしているけれども、そのまま残っていたことである。40年前で既に新しい家だと思わなかったから、築50年にはなるだろう。1階東の子供部屋の前がベランダのようになっているのもそのままだ。ブロック塀もそのままらしい。何かの折に塀の上から飛び下りたとき、どうした弾みか二の腕の力瘤の辺りを塀のコンクリに擦って、皮膚が綺麗に裂けてしまったことがある。血も出ず痛くもなかったが、筋肉を包む薄い膜のようなものが現れたので吃驚して家に駆け込み、(当時は珍しくなかった)専業主婦の母に見せると、母は騒がず絆創膏で合わせて止めたのである。すると、筋に沿って裂けていたためか、あっさり合わさって、別に何ともならなかった。ただ、40年近くを経た今でも、私の貧弱な左腕の力瘤には、幅0.3cm×長さ1.0cmほど、斜めに白く痕跡が残っている。
 当時、学習雑誌を購読していた商店街の本屋は、鉄筋に建て直された後に廃業したようであったが、建物には屋号がそのまま残っていた。しかし、通りはすっかり様変わりしていた。とにかく広く、明るく、寂しくなっていた。
 登校班の班長をしていた6年生の住んでいた長屋は、駐車場なのか更地になっていた。この班長は、少し離れたアパートに私たちを連れて行き、玄関の前に出してあったコーラの硝子瓶を取って来るよう命じて、私は悪いことだろうと思いつつ、上級生の命ずることが悪いことと云う確信も持てずに、他の同学年の者と瓶を取って来て、そして駄菓子屋だか酒屋に持っていって小銭に換えて、それからどうしたと云う記憶もないが、胸に刺さった棘のように、力瘤の傷のように何時までも消えない*2

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 家が残っていた、と書いたが、それは今から4年前、平成24年(2012)6月に撮影されたGoogle Earthの写真で、今年撮影したらしい航空写真には、建築中らしい白いコンクリートの基礎が写っていた。これで、私の当時の想い出は半ば滅びた。塀はもちろん、庭木も伐られてしまったようだ。――もはや頭に存する記憶を辿って見るしかなくなった。いや、実家には写真があるはずだけれども。(以下続稿)*3

*1:ここまでは別の記事に関連して書いて置いたもので、ここから後は独立の記事にしてから書いたので、色合いがかなり違っているが、そのままにした。

*2:この頃の記憶は、2011年7月1日付「節電大歓迎」に書いたことがあった。やはり幼児期の私は年長者を羨ましいと思っていて、早く同じようになりたい、そうなるものだ、と思っていたのであった。――今、そう思えるであろうか。

*3:追記】投稿当初「約40年前の記憶」としていたが、改題した。昭和50年(1975)7月から昭和55年(1980)3月まで住んでいた土地の記憶である。