・都内の旧居追懐(5)
昨日の続き。もう少々、私が21年前まで住んでいた家について回想しよう。
玄関は洋式で、やや横幅のある茶色く塗装した扉だった。真鍮の丸い把手があって、その下の前方後円墳のような形の鍵穴に、やはり真鍮の先端にM字型の突起の付いた鍵を差し込んで開けた。今思うと針金か何かで簡単に開いてしまいそうだった。何度か鍵を忘れたまま出掛けて閉め出されたことがある。1度は塀などを伝って、2階の私の部屋の窓から侵入した。私は基本暑がりで、窓を開けていることが多かったので夏なら窓から侵入出来たのである。しかし、冬、流石に窓を閉めていた。このとき徒歩5分ほどの図書館に出掛けなかったのは休館日だったからだろうか。貧乏学生だった私は喫茶店など全く利用しないので、そう云うところで粘って時間を潰すと云う発想がなかった。すぐにいたたまれなくなりそうである。いや、おっさんになった今だって、いたたまれない。
そこで、どうしたかと云うと、裏の老夫婦が住んでいる家を訪ねたのである。裏の家は、私の家の2/5くらいの敷地で、東西に長くて庭は殆どなかった。お婆さんが在宅で、事情を話すと中に入れてくれた。そして2人で炬燵に入りながら、世間話をしたのである。80過ぎだったろうか、小柄で痩せて眼鏡を掛けて、顎関節か或いは入れ歯なのか、始終何かが外れては嵌まるような音をさせていた。閉め出された私に痛く同情して、お茶や蜜柑など勧めてくれた(ように思うのだけれどもよく覚えていない)。これも今からすると、もっと厚かましく度々押し掛けて、色々な話を聞いて置けば良かった、と思う。いや、小学生か中学生だったら、私ももっと遠慮なしにお婆さんに甘えたろうに、それこそ、毎週 ”山吹のおばさん" を訪ねていた吉野朔実のように。――私が昼を食べていないと知ると、手際よく関西風の饂飩を拵えてくれた。温かくて美味しかったことを今でも覚えている。しかし、なんでそんな早い時間に帰って来たものか、どこに出掛けていたのかは、まるで覚えていない。
関西風の饂飩と云うのは、夫婦とも関西の出身だからで、お爺さんは神戸商船学校の卒業だと母から聞いていた。母はボランティア活動もかなり本格的にしていたが専業主婦で家にいることが多く、かつ大阪出身(その両親は広島県出身)だから同じ関西出身の親しみもあって、普段からいろいろとただの隣人と云う以上のお付き合いがあったらしい*1。
結局、私が修士論文を提出した後で、私たち一家は退去することになった。
売却先は医師で、夫婦で下見に来た。夫人が庭を見て感心した風で、木を少し残したい、みたいなことを言ったのだが、数年後、たまたま通りかかって、文字通り一草一木も残っていないことを知った。単純な私は先の発言に感激していたのだけれども。
ここでようやく、芥川龍之介旧居跡の話題に戻る。平成2年(1990)8月7日に Lyle Hiroshi Saxon が田端駅周辺を散策して撮影した動画と、Google ストリートビューで見た現状(2019年6月)を比較したときに、まさに、前者が私が住んでいた戦前以来の住宅に同じで、後者はその後、医師が新築した家と同じなのである。
芥川龍之介旧居跡付近に平成初年頃にあった住宅は、高いブロック塀の中に、鬱蒼と木々が茂っていた。まさに私が住んでいた社宅のように。しかし、今、Google ストリートビューで見るに、塀はなくなって、通りから建物までの少しのスペースをコンクリートで固めている。恐らく相続の問題が発生したとき、やはり私の住んでいた社宅と同じように老朽化の問題もあって、一部或いは全部を売却して、そして跡はマンションや、何軒もの家に分割されて、建て込んでいるのだけれども塀もなく、樹木もないから通りは広く、明るいことは明るい。しかし、乾燥しきったような印象である。潤いがない。
かつての東京では、吉野朔実の “山吹の家” のような、庭の緑を大切にする人々が暮らしていた。しかし、時代がそれを許さなかった。東京はいよいよ潤いなく乾燥して行く。このような改造が気温上昇に関係ないと言えるだろうか?
私はこうした戦前以来の住宅地が滅びて行こうとする現場に立ち会えたこと、8年余りもそこで生活することが出来た幸運に感謝すべきなのであろう。
今、こうして回想して、いよいよ滅多にない貴重な体験をしていたのだとの実感を新たにした。しかし、当時の私はまだそこまで分かっていなかった。無知ほど恐ろしいものはない。見ていても、価値に全く気付かないのだから。そう、同じものを見ても、何も読み取れない人がいる。どうも、そう云った知識に関する辺りが、最近の国語教育では軽視されているように思われてならないのである。無知であることを基本に、無知に開き直っているような‥‥。
それはともかく、それからしばらくして、裏の家のお婆さんの訃報が届いた。お爺さんは既に死去していたがそれがいつだったか、思い出せない。母のところに連絡が来て、私が一家を代表して御焼香に伺った。桐ヶ谷斎場の、いくつかある小さな式場の1つで、20人ばかりが参列していた。高齢で、かつ生れ故郷から離れているから、若い頃の友人と見える人の参列はなく、ずっと若い人ばかりであった。ご子息と見える人に一礼すると、着席するよう促されたのだが、怱々に辞去してしまった。これも今からすると、最期の様子など少しでも聞いて置けば良かったと思う*2。
さっき、小学生か中学生だったら、と書いたけれども、浪人時代に東京に出て来た私には、2014年3月24日付「楠勝平『おせん』(1)」に述べたように地元の知人と云うのが皆無だった。母はそれでも近所付合いをしていて、向いの若奥さんがクッキーを焼いて餞別に持って来てくれたりしたのだが、私にはお婆さんとの、それも僅かな交流があったのみだった。社宅の取り壊しと一草一木余さず滅ぼした新築、そしてお婆さんの死が、私をこの土地から永久に切り離した気がするのである。
しかし、私が住んでみたい家があるとすれば、やはりあの家なのである。昔のままのあの家、決して戻ることの出来ない、滴るような緑とひんやりと暗いあの庭、賑やかな小鳥たち、家中どこに置いてもボールが転がった古い家、‥‥芥川龍之介旧居跡を撮影していた Lyle Hiroshi Saxon が、実は同じ頃私の家の近所を散策していた。しかし、Saxon 氏は私の家よりも100mくらい東を歩いてしまい、残念ながら私の旧居が撮影されることはなかった。もし通り掛かったなら、あの玄関の照明、門柱、そして井戸など、注目して撮影したに違いない、と思うと返す返すも残念である。そして今や、私の記憶も、間取りなど言葉では説明出来るのだが、映像としては朧になってしまった。(以下続稿)