数日前、ある本についての記事に、ふと思い付いて「約40年前の記憶」を書き付けているうちに長くなって、昨日、本から切り離して独立の記事にした。けれども小学2年生までを過ごした土地のことなので、何の広がりもない全くの身辺雑記に過ぎない。それから、投稿日から「約40年前」なのだけれども、この何年前と云う勘定の仕方は基準が曖昧になりがちである。それで「昭和50年代前半」に改めた。けれども小学2年生までのことだから、別に当時の風潮を捉えている訳でもないし、絡めて考察しようとも思っていない。
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私の住んでいた家は、最近取り壊されたらしい。
小学校は山の中腹にあったが、家はほぼ平らなところに建っていて、近所に昔から住んでいる人の話では大昔は沼だったとかで、洪水のときに辺り一帯が浸水して舟で移動したそうだ。南西角地だった。
本当に断片的な記憶しかなくて、確か1階の西を父の書斎に使っていて、中にソファのある応接間があり、そして東に子供部屋、ここの西壁に知人からもらった2段ベッドがあって、兄が上で私は下だった。もちろん何の不満もなく、むしろ『ドラえもん』の押入れみたいで気に入っていた。
当時『ドラえもん』はアニメ化されておらず*1、小学館の学習雑誌は買ってなかったが、何かの機会に「コロコロコミック」で読んで愛読するようになったのだと思う。それで単行本も揃えたのだが、中学に進学するとき、この歳になって子供漫画でもあるまい、と思って棄ててしまった。昔は人間ってものは年相応に振舞うもんだと思っていたものだった。それはともかく、もう手許にないから私が『ドラえもん』を知った正確な時期は、確かめようがない。
ただ、妙に覚えているのは、雪だるまが暴れ出して、オチは炬燵で融けていた、という話で、青インクで刷られていたような記憶さえあるのだが、これがどうも私と『ドラえもん』の出会いで、後で単行本を買い揃えてからこの話を探したときに載っていなかった(もちろん雑誌は保存していない)こともあって、より印象が深くなったのである。しかし『ドラえもん』になるとネットの検索で大抵のことは分かるので、「青いロボットの伝説」というサイトの、全原作作品を紹介・解説「漫画の中からはるばると」の「てんとう虫コミックス」に収録されなかった作品をまとめた「コミックス未収録作品」の「未収録作品ら行」に紹介されている、「ロボット雪だるま FF9巻 8頁 小二77年2月号(うごくゆきだるま)」だと分かった。「小学二年生」昭和52年(1977)2月号で読んだのではなく、「コロコロコミック」に転載されたのを読んだのだと思うのだけれども、そこまでは調べられなかった。昭和57年(1982)1月8日放映のアニメ第644話「ロボット雪だるま」は感動のラストに改変されていて*2、しかし見た記憶がない(或いは見て、改変を不満に思ったような気もする)。
私の住んでいた土地ではアニメが小学2年生の秋から放映されるようになって、心待ちにしていた記憶がある。しかし、つぶらな瞳で白目のなかったはずのジャイアンの目が、殆ど白目になっていたり、「しずちゃん」と呼ばれていたはずの女友達が「しずかちゃん」になっていたり、かなり違和感があったが、――LPレコードを買うくらいに嵌った。
それはともかく、子供部屋の北側に台所と食堂があって、白いテーブルに白い椅子(これは実家に現存している)で食事をして、食べ終わるまで応接間に行ってテレビを見てはいけないことになっていた。肥満児の兄はさっさと食べてしまったが、好き嫌いの激しい私はなかなか食べ終わらず、好きなテレビ番組を見に行けなかった。――学校でもそうで、昼休みの後半の掃除の時間に、私は別の女子と教室の後ろに机ごと移動させられて、昼休みが終わるまでもそもそ食べ続けたのである。……それが今や、飲み会に行くと(尤も、女子高を辞めてから久しく行く機会もない)酒を飲まないこともあるのだけれども延々ひたすら食べ続けるようになっているのだから、不思議なものである。――その後、小学生のうちに、何故か好き嫌いがなくなって、ほぼ何でも食べられるようになったのである。
書斎の北に便所があったのは、――北隣の家にTake君という同学年の子がいて、身体は大きいのだけれどもぼんやりしているのでBoke君と呼ばれていた。全く子供の渾名は遠慮がない。呼ぶ方も呼ばれる方もそれをさしていけないこととも思わなかったのである(しかしこのことは、後年、より残酷な形で痛感させられることになる)。そう云えば中学の後輩に「ぜっぺ」と云う渾名の男がいた。もちろんジュゼッペっぽいとか云うイタリア被れの由来ではなくて、後頭部が絶壁だと云うのである。これなど、絶壁の原因は生まれてしばらくの間の寝かせ方にあると云われていたから、もし親が聞いたらさぞかし気を悪くしたろうと、今にして思うのである。
それはともかく、ある日、小学校から帰って、スキップしながら北隣の家に行って「Bo〜ke〜君、あ〜そ〜び〜ま〜しょっ」と明るく(?)呼び掛けるや否や、便所の窓から母に「こらぁっ!」と怒鳴られたのである。……だから、便所が家の北西の隅にあったことは、間違いないと思うのである。
玄関は、書斎と応接間の間の南側にあったと思うが、どうだったか覚えていない。実家のアルバムに玄関前で撮した写真が何枚かあったはずだから、見ればはっきりするだろう。
そして、2階の和室が両親の寝室になっていて、普段は上がらなかったが、明るい日曜の朝、寝溜めをしている父の布団に潜り込むと、子煩悩な父は膝を折って布団を山のようにしてくれる。私はその山に登ったりして遊んだものだった。そして、白い自家用車でドライブに行くのである。車を買ったのは良いが、通勤は電車であまり乗らずにいるうちにバッテリーが上がるようになって、週1度は乗らないと駄目だと云われたとかで、それを家族サービスにしていたので4年半の間に県内の観光地を随分回ったのである。――当時はシートベルト着用が煩く云われていなかったから、私と兄は後部座席で喧嘩を始め、あるとき「喧嘩を止めないなら下りなさい」と母に叱られて、それでもまた喧嘩を始めたので下ろされてしまった。ところが兄も私も強情だから、そうなると手を繋いでもくもくと歩いたのである。もちろん歩いて帰れる距離ではないから歩いたって仕方がないのだけれども、しばらく、親が車を止めて、謝れば乗せてやる、というサインを出し続けているのを無視して、車を追い抜いて(!)歩いたのだった。(以下続稿)