瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の思ひ出(05)

 昨日書いた内容について、家人からクレームが付いた。そして「あなたは他人の記憶をあげつらっているのに、自分は記憶のまま確認せずに書いていて良いのか」と言うのである。
 確かにその通りなのだけれども、敢えてやっているので、取り敢えず今、私の記憶している通りを書いて、家人に訂正してもらえば良いと思ったのである。そして改めて、記憶なぞと云うものは当てにならないと思うのである。その当時聞いた話を、隅々まで正確に覚えてなどいられないので、何処かしらに穴が生ずる。その穴を、勝手に補修してしまうのである。
 私は、この、記憶の合理化に興味がある。と云って、何か法則を見付けようと云うのではない。そんな学問めいたものにする気はさらさらなくて、ただ道楽として興味があるのである。
 別に、捻じ曲げられた記憶を排除しようと云うのではない。しかし、――事実を出来るだけ正確に把握するためには、当時の資料、新聞・雑誌・日記に拠るべきで、もちろんそれらも記録された背景を押さえて使用する必要がある。直後に記録されたからと云って、事実を正確に記述しているとは限らない。その次に、後年書かれた回想・小説そして談話を、同時代資料と突き合わせながら使用するべきなのである。
 私が、怪異談の古い時期の資料に拘泥するのは、このような理由からである。世間には後年のヴァリエイションを、発生当時から行われていたかのように扱う無神経な怪談愛好家が後を絶たない。ヴァリエイションは、飽くまでもそういうものとして、その発生時期・発生理由を考慮に入れて扱うべきなので、これを大元の話にまで遡らせて論じてしまったようなものは空論、いや、徒に混乱を招くばかりと云う点では、存在しない方がマシだと云わざるを得ない。
 こう書くと私をヴァリエイションを憎む者と勘違いする人がいるかも知れない。しかしそれは誤解で、当ブログに示した幾つかの面倒臭い検証を読めば諒承してもらえると思うが、私は、ヴァリエイションの発生と展開には大いに興味を抱いているのであって、私が憎むのは不注意に妙な論を立てたがる人なのである。

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 さて、昨日書いたことに対する家人の訂正だが、まづ「馬鹿野郎」と云って息子を蹴ったのは、まだ救急病院にいた時分のことであったそうだ。
 夜中、10分おきに看護婦を呼ぶ。看護婦が来ると便所に行きたいと云う。もちろん、そんな頻繁に用便する必要はない。救急病院はこのような老人の扱いに慣れておらず、困ったらしい。そこで、義理の両親が泊まり込むことにして、便所に行きたがるごとに宥めたり賺したりしていたのだが、そんな中で、行きたがって「馬鹿野郎」と言ったので、別にマンションに帰りたがってのことではない、と云うのである。それに、頭を蹴った訳でもない、と。
 しかし、帰りたがった、と云うことと、頭を蹴った、と云うのは、確かに聞いたように思うのである。
 しかし、結局私はそういったややこしい現場に行ったところで何の役にも立たないと分かっていたので、救急病院にも次の転院先にも、そして数ヶ月入居した都下の特別養護老人ホームにも行かなかった。そこはやはり、肉親とは一線を画するところがあった、と云うことなのであろう。
 義理の両親は地方と都下を往復して、こちらにいるときは祖母のマンションに泊まり込んで施設に通っていたのだが、健康状態は安定していて長期に入所することになりそうだと分かると、祖母を自分たちの住む地方の施設に移すことにした。自分たちも後期高齢者で、自宅で面倒を見ることは難しい。地方と都下を往復する二重生活の負担も大きい。
 地方に連れて行き、新しい施設に入居させるときに、抵抗を示すのではないか、と懸念していた(スタッフの話す方言のアクセントから、妙なところに連れて来られた、と不安に思うのではないか、と考えたのである。――或いはこれが「帰せ」と言ったと云う記憶に繋がったのかも知れない)が、幸いそのようなことは全くなく、2階の角部屋に落ち着いて、ここで満100歳を迎えた。そして大嫌いな岸信介の孫の名で、100歳の祝いの銀杯(この年まで純銀製)をもらうことになった。達者だったら「岸の孫からの祝いなど、受け取りません!」と突き返していただろう、と義父は言っていたが、当時の祖母にはそのような激しさは全くなくなって、何を聞かされても、分かっているのかいないのか、そうですか、と云った按配だった。いや、話の内容を深く理解することは出来なくなっていたみたいだけれども、陸軍中将の娘として育ったらしく上品な言葉遣いで、相手に合わせて普通に受け答えすることは最晩年まで出来ていた。
 初めて夫婦で見舞いに行ったとき、もう祖母は家人のことも分かっているのかどうか、と云った風であったが、ちょうどお八つの時間でスタッフの若い女性が、蜜柑のゼリーを持って来たのである。祖母はそれを食べて「美味しいわね」と言っていたが、ふと、スタッフの方を振り返って「この方たちにもお出しして」と言ったのである。――スタッフのことを、昔、実家にいた時分の姐や(下女)だと思っていて、そして、お客さんに菓子を出さずに自分だけが食べているのはおかしい、と思ったらしいのである。それを見て、私は祖母がこの部屋を自分の家だと思っていて、不足も不安も感じていないのだと安心したものであった。
 以後、私は年末に、家人はそれ以外にも時間を作って帰省していた。もう自由に歩くことは出来なくなっていたが、完全に寝たきりになることはなく、ずっと施設の最高齢だったが、漢字テストをやると「青梗菜」の読み以外全問正解(もちろん断トツの成績)、祖母の若い時分には青梗菜などなかったはずだから当然である。しかしもう本は読めなくなっていて、手にしても眺めているだけで読んではいない、と云うのが義父の観察であった。
 最後に見舞ったのは昨年の末で、下の妹とその小学校低学年の息子、それから義理の両親と6人で出掛けた。曾孫には何かと云うと「お利口さんね」と言うのであった。そして義母が、家人のことを「▼▼も子供の頃随分可愛がってもらって」と言うと、「今でも可愛いわよ」と吃驚するようなことを言うので、私などは祖母の育ちの良さ、最後まで残った、その地金とも云うべき部分が、満104歳になって猶しっかり光を放っているのを目の当たりにするような気がして、ほとほと感心してしまったのである。(以下続稿)