瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(302)

田辺聖子の赤マント(3)
 田辺氏は初期の自伝的連作『私の大阪八景』の第一作「民のカマド」に、小学生時代の赤マント流言を取り上げているのですが、このことは殆ど注意されていないらしく、11月6日付(299)に見たように千野帽子が「文藝ガーリッシュ」に取り上げたくらいで、しかしこれも新聞連載の後、単行本に纏めていないせいか、千野氏が文藝誌「ユリイカ」の田辺聖子特集に再録していますが、田辺氏の赤マント流言体験自体はやはり注目されないままになっております。
 さて、私は千野氏とは別に、『私の大阪八景』に赤マントが使われていることに気付いて、今からすると2019年6月23日付(181)が「田辺聖子の赤マント(1)」となるべきところだったのですけれども、その後、『私の大阪八景』の舞台や時期、登場人物のモデルについて2019年7月9日付(197)まで、だらだらと考証したものでした。
 細かい確認は済ませてありますので、ここでは関係する本文を抜いて、前回引いた『女の長風呂(続)』の「おべんじょ」と重なりそうな箇所を太字で示して置くこととしましょう。まづ、2019年6月30日付(188)に見た、赤マントが持ち出される切っ掛けとなっている段落、担任のタヌキ先生について、

 トキコもいっぺん叱られた。赤マントという流言ひごがはやって、暗い校舎の隅や、お便所へは一人でゆくものがなくなった。トキコは時間中に、その小説を書いていたのをみつけられたのだ。

とあります。それから2019年7月3日付(191)に引いた、小学6年生の主人公トキコが授業中に書いていた、

「天下一品のぼうけん小説 !! 」
  きょうふの赤マント !!

と題する小説を朗読させられる場面になります。地の文での説明は「その横にさし絵も描いてある。キバをむいて角を出した赤マントを、色鉛筆で彩色して線をひっぱって矢印をつけ」とあるくらいで、次いで

福島小学校、一階便所にこつぜんとあらわる

と、脇見出しもしくはキャプションのような文句があります。「福島小学校」については2019年6月27日付(185)に確認したように、田辺氏が通っていたときの名称は「第二上福島尋常高等小学校」でした。長たらしいので戦後の名称を採用したのでしょう。
 そして2019年7月4日付(192)に引いた冒頭部分、

赤マントは支那軍のスパイであることがはんめいした」「そのすじの調べによると、赤マントは子供をとってくうかいぶつであった。たんていが誰もいないはずの便所の戸をあけると、パッと赤マントは、マントをひるがえしておそいかかった。そのとき、けいかん達が包囲してぴすとるを発射した。たまは赤マントの体からはねかえり、赤マントはカラカラと笑ってけいかん達をあざ笑いながら、屋根の上にとび上がり、マントをひろげて高らかにうたった。」

と、まるで新聞記事のような書き方になっております。続く数え歌は割愛します。
 この小説はタヌキ先生に破られて捨てられてしまうのですが、一旦席に戻されたトキコは、2019年7月5日付(193)に引用しましたが、

「きょうふの赤マント現わる !!
 そのすじのしらべによると、赤マントはすでにタヌキ先生をかみくだいていた

と書き直すのです。
 すなわち「おべんじょ」には『私の大阪八景』の「支那軍のスパイである」と云う点が抜け落ちていて、あったのか、なかったのか分かりませんが、とにかく「小学校の便所に隠れて子供を襲い、あたまから食べてしまう」との認識は『私の大阪八景』と共通していると云えるでしょう。
 気になるのは「おべんじょ」では時期を「昭和十年代のはじめ」としていることです。
 田辺氏が小学校に入学したのは2019年6月27日付(185)に見たように昭和9年(1934)4月です。
 大阪の赤マント流言の時期とその内容については、そろそろ総浚えをして纏めないといけないのですが、今回も過去の部分的な纏め記事を上げてお茶を濁して置きます。時期については2019年7月13日付(201)に挙げたように昭和14年(1939)7月上旬まで、勿論その後も市内各所の小学校の便所にくすぶり続けたでしょうが、流言としてパッと広まったのはこの時期です。内容については、例えば2019年7月14日付(202)に、当時大阪市瀧川尋常高等小学校(現、大阪市立滝川小学校)に通っていた黒田清とその前後の世代の回想を引いて置きました。こちらには「アメリカのスパイ」説が持ち出されております。当時の、昭和14年7月8日付「大阪朝日新聞」には、2014年2月13日付(113)に引いたように「ロシヤ帰り」と云う説があったことが見えております。
 翻って、田辺氏ですが、『私の大阪八景』では正しく小学6年生、すなわち昭和14年のこととして書いているのに、この「おべんじょ」では「昭和十年代のはじめ」と曖昧になっております。小学1年生の3学期から昭和10年(1935)、卒業は昭和15年(1940)3月で、田辺氏の小学生時代はほぼ昭和10年代の前半に当たるのですけれども、その「はじめ」と云うのですから、「おべんじょ」執筆時点では低学年か、中学年の頃には赤マント流言が既に行われていたかのように思っていたらしいのです。しかしこれは、差当り記憶の混乱と解釈して置くべきでしょう。
 さて、大阪の赤マントが具体的にどのような危害を加えるのかは、実は曖昧で、前記、昭和14年7月8日付「大阪朝日新聞」等に “吹き矢の赤マント” とありますが、これは2016年8月1日付(151)に考察したように、実地の取材に基づいていない可能性があります。幾つか拾っている回想に特に「吹き矢」を強調するものが見当たらないことも、私にこの見当を支持させるのです。その中で、田辺氏が小説で述べている、「赤マントは子供をとってくうかいぶつ」で、気に入らない先生を(作中での小説上のことですが)「かみくだいて」しまうと云うのが、エッセイでも「頭から食べてしまう」と裏付けられたのは中々に貴重です。
 ここで11月6日付(299)に触れた千野帽子の2019年3月9日14:18の tweet に、「昭和10年代には〈赤マント〉の流言があり、‥‥」と述べていることについて、これは田辺聖子『私の大阪八景』ではなく、続く2019年3月9日14:25の tweet に、「赤マント流言」について「性犯罪者はどこに潜んでいるかわからないという注意喚起の目的によって‥‥正当化」される、と述べていることからして、田辺聖子「おべんじょ」の、

 女の子は、校内の便所でもしばしば痴漢に襲われることがあるから、あながち荒唐無稽な作り話ともいえない。学校では、「お便所はなるべく連れ立っていきましょう」などといっていたが、私たちは赤マントのためだと思っていた。

に拠ったのだろうと思うのです。(以下続稿)