瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

昭和50年代前半の記憶(4)

 話が脇道に逸れた。しかしこんなことを何となく覚えているのも、その後の私に異性から惜しまれた経験がないからで、それに昭和50年代の小学生は男女が仲良くしないのが常識(?)で、その後、幼馴染がおらず思春期にそういう話をする友人が周囲にいなかった私は軟派に切り替える機を逸してそのまま硬派を通したのであった。
 昭和55年(1980)2月14日、小学2年生のときのバレンタインデーで、女子にお礼を約束して(当時はまだホワイトデーなどというものはなかった)チョコレートをたくさんもらっていた奴が1人いたが、私らは軽蔑していたものだった。……まぁその軽蔑の度が過ぎたのか、女子高に何年もいながら生徒からは全く(男性教師全員に配るようなのを除いて)もらえないと云う報い(?)を受けるのだけれども、お返しをするのも面倒だから、いらないのである。――私より10歳くらい若い同僚で、何故か担当しているうちの1クラスでだけアイドル的な人気を博して、バレンタインデーに辛党で甘い物は苦手なのにクラス全員から1つずつ、安物だけれどもチョコレートをもらったのがいて、困っていた。もらってはいけないのではないか、これが管理職に知れたら首になるんじゃないのか、と(女子高での勤務は1年めだったこともあって)真剣に悩んでいる風だったので私は、別に真剣な眼差しの1人の美少女から愛の告白とともに贈られたような代物でないんだから、堂々ともらって食べちゃえば良いのだ、と先輩らしく(?)智恵を付けてやったものだが、幸いにして私はそのような騒動には巻き込まれずに済んだのである。
 口裂け女が流行ったのは小学2年生のときのことだったが、――ある女子が「休みの間、伊豆のお祖母ちゃんの家に行くから私は平気だ」みたいなことを言ったのである。確かにこの辺りを徘徊しているのであれば、離れたところに行けば安心だ、みたいな発想になってもおかしくはない。ところがそのとき、ある男子が「口裂け女は伊豆が好きなんだぞ」みたいなことを言ったのである。私は何バカなこと言ってるんだ、と思って見ていたが、この男子が、裏工作(?)してチョコレートをもらい集めていた奴だったと思う。まぁ、こういうのが一種の才能なのであろう。時期は冬休み前のように記憶していたのだが、どうも、夏休み前だったようだ。
 それはともかく、私が当時住んでいた家の記憶は、住む前に遡る。
 昭和50年(1975)7月、まだ幼稚園に上がる前の私は、まだ荷物を入れる前の空き家だったこの家を父とともに訪ねて、疊を上げて、下の板の上に白い粉薬を撒いた記憶があるのである。日差しの強い夏の日であった。
 3つ年上の兄は小学1年生の1学期まで、横浜の小学校に通っていたから、学年の途中で2学期から転校したのである。私は詳しいことは知らない(と云うか、分からなかった)が、この学年途中の、幼稚園から一緒だった友人たちと小学校生活に馴れ始めた矢先に引き離す形になったのはかなり思わしくない影響を兄に及ぼしたらしく、以後父に、年度の途中で転勤の辞令を受けても年度末までは単身赴任する、と云う決断をなさしめたらしい。
 とにかく、何故父と私の2人だったのか、その前後にどんな段取りがあったのかも、全く覚えていないのだけれども、その後、兄と私の子供部屋になる部屋の疊の下に殺虫剤だか防虫剤だかを撒いた記憶だけが、鮮明に残っているのである。室内の照明は付いていなくて、開け放った戸の外の、外光ばかりが眩しかった。
 子供部屋の記憶では、――土曜の午後だったか日曜だったか、ラジオを聴き始めた兄が聞いていた音楽番組で、クリスタルキングの「大都会」と、オフコースの「さよなら」が毎週リクエストのトップを競っていた。今、調べてみると前者が昭和54年(1979)11月21日シングル盤発売、後者が同年12月1日シングル盤発売で、確かに同時期にヒットした曲であった。兄はオフコースが好きらしかったが、私は「大都会」の方が好きだった。「さよなら」は何だか気持ち悪かった。「愛したのは、確かに、き〜みだけ〜」と言われても小学2年生には分からないのである。だから歌詞を聞き違えて「明日は、明日で、き〜みだけ〜」だと思い込んでいた。今日「さよなら」するから「明日は、明日で、き〜みだけ〜」なのか、と。(以下続稿)