瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

昭和50年代前半の記憶(5)

 当時――昭和50年(1975)7月から小学2年生の昭和55年(1980)3月まで、スポーツと云えば野球だった。『キャプテン翼』はまだなかった。尤も、当時私が過ごしていた場所はサッカーが盛んだったので、私もそういうチームに入ってお遊びみたいな試合をした記憶があるのだが、どんな集まりで一緒に参加していたのはどんな人たちだったのか、学校関係のクラブでなかったことは確かなのだが、詳細は全く記憶していない。
 水島新司の『ドカベン』が連載中で、アニメも見ていた(実写映画のことは知らない)し、兄が「少年チャンピオン」を買っていたので、単行本は買わなかったが漫画も読んでいた。今、Wikipediaを見るに「ドカベン」のアニメは昭和51年(1976)10月から昭和54年(1979)12月に放映されていた*1。アニメは主人公たちの明訓高校が弁慶高校――『ドカベン』の世界は日本の伝統(?)に繋がっているのである――に負けたところで終わってしまったが、連載は続いていて、岩鬼が山田と植物状態みたいになってしまった弁慶を羽黒山に訪ねて(こう書いていると何の話なのか分からないな)意識を回復させる場面を「少年チャンピオン」で読んだ記憶がある。確か、バルサンみたいな薬を焚くので(砲台みたいな形の、強烈な匂いのする薬だった)家を空けないといけないと云うので、自家用車で近所の店に食事に出掛け、店を出てからもしばらく車内で時間稼ぎをしていたのだが、その車内で読んだように思うのである*2
 「少年チャンピオン」では、『マカロニほうれん荘』や『ブラック・ジャック』――前者は兄が単行本を買っていて、後者は昔からの手塚治虫ファンの父が単行本を買っていた。だから家には「恐怖コミックス」時代の『ブラック・ジャック』があった――、「がきデカ」「エコエコアザラク」や「らんぽう」なども記憶している。全体は覚えていないが、断片的に嫌に鮮明に覚えているのである。どんなことを覚えているのかは、また折があれば書くことにする。
 それはともかく、当時は男子たる者、どこかプロ野球のチームのファンでないといけない、と云う風だった。……と書いて、兄の贔屓の球団がどこだったのか覚えていないことに気付いたのだが、兄は野球に興味を持っていなかったようにも思う。私の父は平均的日本人らしく(?)巨人ファンで、母は私の高校時代に阪神ファンになるのだが、当時は野球に興味を持っていなかった。親戚では2人の従姉――父の兄の娘が阪神ファンで、父の姉の娘が中日ファンだった。2人とも関東地方に住みながら法被を着て負けたら物を投げ散らすくらい熱狂的だった。
 兄のことはともかくとして、私の周囲では贔屓の球団がないといけないような風潮があって、それで私はヤクルトファンになった。今でもそうだけれども、私は他人のことで人と争いたくなかったのだ。自分に原因があるのなら改めようもあるし反省も出来るが、野球の勝ち負けで相手を馬鹿にしたりされたり、と云うのが馬鹿馬鹿しくて、それで昭和54年(1979)に圧倒的に最下位だったヤクルトのファンになったのである*3。巨人とか阪神とか言うと、喧嘩になりかねないが、ヤクルトと言うと鼻で笑われてお終いだから、至って平和である。前年の昭和53年(1978)に日本一になっているのだが記憶にない。まだファンになっていなかったのだろう。
 ところが、関根監督時代に、強くなって来たのである。そうすると自然に、普通に応援するような按配になってきて、大学時代、野村監督がセリーグ制覇して、日本シリーズを岡林投手がへろへろになりながら投げていたのを心の底から応援していたのだった。だから第7戦で負けたのを大学のサークルBOXのラジオで聞いたときには同じヤクルトファンの友人と本当に悔しがったものだった。ところが翌年、再度西武と日本シリーズを戦って、第7戦に勝利して日本一になったとき、喜びつつも違和感を覚えたのである。――違う。
 ――俺たちが応援していたヤクルトスワローズは、こんなチームじゃなかった。
 これは、私と同じく弱いヤクルトのファンになった件の友人*4も全く同じ感慨で、関根監督から野村監督へ、次第次第に強くなったから、うかうかと乗せられて応援してしまったけれども、これは違うぞ、と、2人で頷き合ったのだった。
 以来、私は野球には熱中することなく過ごしている。(以下続稿)

*1:小学校入学前にはアニメも見ていなかったので、『ドカベン』が当初柔道漫画だったことを知ったのは、2月19日付「松葉杖・セーラー服・お面・鬘(11)」に書いた小学6年生のときの学級文庫に、『ドカベン』の単行本があってそれを読んで後のことだった。

*2:2017年4月14日追記】当時飼っていた十姉妹の鳥籠も車内にあったと思う。十姉妹はその後、転居先で猫に襲われて全滅してしまった。猫の届かない高さに釣って置くのだが、転居等で勝手が違ってしまうと大丈夫だと思っても猫の方がそれを上回ってしまう。鳥籠の中の鳥を襲ったところで猫に引き摺り出す術がある訳でもなく、そして小鳥は危険が迫るとパニック状態になって、猫の手が届かない方に寄ってやり過ごすと云うことが出来ないから、ばたばた飛び回っているうちに全部やられてしまったのである。以後、私の家では十姉妹を飼わない。そして同じ頃に買い始めた背黄青鸚哥を、5月26日付(3)にも触れたように、血筋の断絶はあるがそのまま今も飼い続けている。

*3:この辺りもはっきり記憶している訳ではない。昭和57年(1982)から昭和61年(1986)まで最下位・最下位・5位・最下位・最下位の印象は強いのだけれども。

*4:2014年8月21日付「佐藤純弥「新幹線大爆破」(1)」に登場する友人。