瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(245)

・北川幸比古の学年(6)
 児童文学作家・詩人の北川幸比古(1930.10.10~2004.12.25)の学年とその時期について、松谷みよ子『現代民話考』の中で一定していないことを、これまで指摘して来ました。
 まづ2013年10月24日付(003)にて、北川氏が『現代民話考 学校』の「怪談」に採録された談話で昭和11年(1936)昭和12年(1937)頃の小学3年生だったとしていることについて、昭和11年度に小学3年生とすると昭和9年(1934)4月入学、すなわち昭和2年度に生れたことになってしまいますが、児童書に昭和5年(1930)生と明記してあることから、これは時期が誤っているのだと確認しました。その上で、実際の、東京での赤マント流言の時期が昭和14年(1939)2月であったことから、何らかの事情が存しない限り昭和12年(1937)4月に小学校に入学したはずの北川氏は、小学2年生、昭和13年度の3学期にこの流言に遭遇しているはずで、小学3年生は若干の記憶違いと云うことになる、と述べたのでした。
 その後、『現代民話考 学校』の「子どもたちの銃後」にも、「怪談」と同じく望月正子を回答者として北川氏の談話が採録されていることに気付いたのですが、こちらも、2月21日付(222)に見たように生年が確定させられない書き振りなのです。
 さらにその後、昭和6年度生の人たちと旧制中学、在学中に学制改革があって新制高等学校になっていますが、同級生だったと知って、いよいよ訳が分からなくなって来ました。この点、次に改めて纏めて置きましょう。
 赤で示したのが「赤マント」の時期で、赤の太字は原文通り、時期と学年を補正したものを加えて各年に示しております。
〔A〕昭和2年度生の学年
昭和11年小学3年生←『現代民話考 学校』記述通り
〔B〕昭和3年度生の学年
・昭和十六、七年頃のこと。府立十三中(豊玉高校)を受験したが‥‥ ←2月21日付(222)【4】
〔C〕昭和4年度生の学年
・日支事変(昭和十二年)の頃、小学校二年生だった。←2月21日付(222)【2】
昭和13年度に小学3年生←『現代民話考 学校』時期を補正
・昭和十六、七年頃のこと。府立十三中(豊玉高校)を受験したが‥‥ ←2月21日付(222)【4】
〔D〕昭和5年度生の学年
生年月日、昭和5年10月10日
昭和13年度に小学2年生←『現代民話考 学校』学年も補正①
・東京に敵機が最初に現れたのは国民学校六年生(昭和十七年)の時だった。 ←2月21日付(222)【5】
〔E〕昭和6年度生の学年
昭和13年度に小学1年生←『現代民話考 学校』学年も補正②
・豊多摩高等学校の同級生、谷川俊太郎(1931.12.15生)←3月31日付(224)
・豊多摩高等学校の同級生、鍛冶昇(1931.8.16生)。←4月2日付(226)
 このような作業も、4月1日付(225)に言及した、詩集『桜色の歌』に載っていると云う北川氏の略年譜を見れば無意味になるのでしょうけれども、回想の扱いの困難さを示す一例として、敢えて挙げて置くこととしました。(以下続稿)