瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山田風太郎『戦中派不戦日記』(3)

 昨日の続き。

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 そこのところを、山田氏は押さえている。――9月24日条に以下のように手紙を引用している。講談社文庫(541頁)版(405頁10行め〜406頁9行め)の改行位置を「/」で、角川文庫版(446頁4行め〜447頁4行め)の改行位置を「\」で示した。

 ○河江の伯母より来書。*1
「永い戦争の苦るしみも末は必勝とのみ思い頑張って居りましたが突然降伏とききし時は\何より/の驚きでこれまでまだまだだと申ながらぼーぜんとなって仕舞ました。それがだん\だん事実とな/り泣いても悔やんでも取かへしの付ぬことになりました。それでも戦争が終\結すれば他の兵隊さ/んは早や追々帰ってきます。帰った嬉しさで敗けた事など思っても居\ないらしいけれども日々の/紙上で見る通り戦争犯罪者とか何とかいって大将方がつぎつぎ\と自決いたされ実に残念で身を切/らる思いが致します戦死なさるのなら仕方ないとしても\此んな残念なことが有るものですかこん/な立派な方々をなくする国のうれひはこれでも新\日本の新発足が出来るであらうか誠に悲惨のき/はみです勇達の霊魂も敗戦ときいていかに\ないてゐるか南のはてで奮戦死した者皆ないて居りま/す南方に行ってゐる兵隊さん皆無事\に帰る様にと祈って居ります」*2
 また、
「頭のかげんが悪るくて丁度神経衰弱の様で何回筆を持って見ても思うように書けないの\で夜も/ねむれぬ程思い続けながら一日送り今日に立至りました」
 戦死せる愛児還らず、年老いし母の、敗れて還る村の兵士を見つつ、悲しみ、怒り、耐\え、し/かも国を憂うるの心情切々として、その筆つたなく、仮名遣い違えりというなかれ。\これ余らの/及ばざる名文なり。真情の期せずして溢るればなり。現に廟堂に立ちて、マッ\カーサーの鼻息う/かがいつつ敗戦の責任追及云々と叫ぶ輩よ、この日本の母の声に愧死す\べし。*3


 全く手つかずと云う訳ではなく促音を「っ」に書き換えているようだ*4。「つぎつぎ」も踊り字(くの字点)を使っていたろうと思う。伯母の仮名違いは「思い」「思う」と、ハ行四段活用の動詞「思ふ」をア行にしてしまっているのが目立つ。送り仮名の多(苦るしみ、悪るく)寡(仕舞ました、付ぬ)もある。但し「立至り」のような複合動詞では、1つめ(立ち)に送り仮名を送らないことになっていたから、ここは誤りではない。
 「河江」は兵庫県城崎郡八代村河江、昭和30年(1955)城崎郡日高町に併合、平成17年(2005)豊岡市に併合されている。別冊太陽 日本のこころ 198「山田風太郎」32頁2段め20〜24行めに、

 浪人中は関宮の生家では叔父が再婚/していたために、風太郎は居心地が悪/く、母壽子の実家である諸寄や叔母ち/か(父の妹)が住む河江*5(現・豊岡市日高町河江)で過ごすことが多かった。

とある。浪人生活は昭和15年(1940)3月の旧制豊岡中学卒業から昭和17年(1942)8月に上京するまで。父・太郎(1927.12.15歿)の死後、母・壽子(1936.3.26歿)が、山田医院の後継者となった太郎の弟・孝と再婚(1933〜1936)しているので「叔父」が養父である。「ちか」は実父・太郎の妹だけれども、養父・孝の姉なので「伯母」と云うことになっているのであろうか。「勇」は伯母の一人息子で(他に娘が1人)『戦中派虫けら日記』昭和18年(1943)12月29日条に「昨年九月」に「ガダルカナル」で「中隊」を率いて「戦死した」こと、その知らせを受けての家族の悲嘆の様が書かれている*6
 この日記には中学時代の同級生からの手紙も収録されているが、文語調だが現代仮名遣いに改めてある。伯母の手紙は原文の趣を残すことの意義を認めて、特にこのようにしている訳である。――「續夫婦善哉」の校訂者にも、『小さいおうち』の作者にも、こうした心配りが欲しかったと思うのだ。
 さて、山田氏の日記はしばしば文語体になっているのだが、やはり文語文法に基づく文章が現代仮名遣いになっているのは、どうも、気持ちが悪い。――活字本は1つの作品として、別に記録として原本に忠実な翻刻を、もうそろそろ出しても良い頃合なのではないか。(以下続稿)

*1:角川文庫版ルビ「おば」。

*2:ルビ、講談社文庫版「いさむ」。角川文庫版「うれ・こ・いさむ」。

*3:角川文庫版ルビ「あふ・びようどう・うんぬん・やから・きし」。

*4:但し、戦前から促音を小書き文字で書く人はいて、山田氏の初日の日記では9月9日付「山田風太郎『戦中派虫けら日記』(9)」に示したように促音を小書き文字(捨て仮名)にしている。

*5:ルビ「かわえ」。

*6:9月20日追記】別冊太陽 日本のこころ 198「山田風太郎」38頁上のカラー写真のキャプションに「父方の親戚の伯母が住んでいた豊岡市日高町。今はここに親戚の家はない。/帰省すると生家以上に立ち寄り、餅や干し柿などを土産にもらって東京に戻った。」とあるが、昭和18年12月29日から昭和19年1月4日まで滞在し「餅、ホシ柿などを土産ににもら」っている。このことは関宮の実家に届いた白紙の召集令状(教育召集)を受けて養父(叔父)孝が昭和19年3月10日、東京に迎えに来たときに「この冬、河江に帰ったそうだが、なぜうちに帰らなかった?」と問題にされている。