瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

今野圓輔『幽霊のはなし』(05)

 昨日の続きで、第一章の2節めを見て置こう。
 43頁、章題と同じ大きさの明朝体、3行取り1字下げで「死 の 知 ら せ」とあり、さらに1行空けて、3行取り2字下げで一回り大きなゴシック体の項目名。要領は前回と同じで、参考までに「も く じ」での改行位置を「/」にて挿入して置いた。イラストの位置に加えて、引用・参照されている資料名を挙げて置いた。
  未確認の人のけはい*1(43頁2行め〜)
    イラスト、44頁右上
    43頁5行め「青森県八戸市にすむ短大生、後山みつ子さん*2」から直接聞いたらしく、9〜10行めに、

 これは、昭和四十六年(一九七一年)十二月の報告で、実際に経験したのがいつなのかわからない/が、話の口調からは、ごく最近のように感じられた。

    とある。
  「おはようございます」(45頁6行め〜)
    イラスト、46頁右(頁付なし)
    冒頭、45頁7〜8行め、

 東京の成城大学文化史研究の学生たちが、昭和四十三年(一九六八年)に調査した(『伝承文化』第七)宮城県栗原郡金成町の町民たちの、つぎのような死にまつわる経験の報告がある。


  船長夫人が仮泊地ま*3(47頁2行め〜)
    イラスト、47頁上
    末尾、48頁3行めに小さく「(『いわき市史』第七巻)」。
  ずぶぬれのおにいさん(48頁4行め〜)
    イラスト、49頁上・下(頁付なし)
    48頁7行め「 明治二十一年(一八八八年)生まれの岡本正記さんが、友人の親から聞いた話。」
  「ひとりでは帰れません」(50頁2行め〜)
    イラスト、50頁右下(頁付なし)
    末尾、51頁4行めに小さく「(桂井和雄『耳たぶと伝承』)」。
  夢と現とのあいだ*4(51頁5行め〜54頁15行め)
    イラスト、54頁上
    52頁7行め「とかたったのは、八戸市本鍛冶町にすむ前川原光子さん(24)である。*5
    以下53頁11行めまでは今野氏の解説で、1行空けて12行めから別の実例を挙げている。
    この2例めは別に検討するつもりなので、今は詳細に及ばないで置く。
  夢まくらに白装束*6(55頁1行め〜32頁14行め)
    イラスト、56頁上
    58頁3〜4行め、

 ――これは、昭和四十七年(一九七二年)とうじ、短期大学二年生の青森県八戸市にすむ宮畑ゆみ/子さんの体験報告である。*7


    1行分空けて今野氏の解説。
    その文中、58頁8行めに小さく「(「別冊週刊サンケイ」昭和32年7月 長崎抜天氏の報告)」とある。
    日本舞踊西崎流家元西崎緑(1911.5.20〜1957.2.18)の通夜で、夫内海通吉の見た夢。
    西崎氏と長崎抜天(1904.4.1〜1981.1.3)はNHKラジオのバラエティ番組「とんち教室」の生徒だった。
  「最後のあいさつ」も交際社交*8(59頁2行め〜61頁7行め)
    この項は今野氏のまとめ(解説)で、引用等はない。
 この節で注意されるのは、昭和46年(1971)12月に短大生の後山氏、本書の刊行された昭和47年(1972)に短期大学2年生の宮畑氏、そして年月を記さないのでやはり本書の刊行された昭和47年(1972)に「24」歳であったのだと思われる前川原氏と、青森県八戸市の女性の体験が3つ紹介されることである。刊行当時、今野氏は11月10日付(03)に引いた8頁「著者紹介」にあるように「女子聖学院短期大学教授」であったが、この短大は埼玉県上尾市にある現在の聖学院大学で、八戸とは関係がないようだ。昭和46年(1971)に開学した八戸短期大学(幼児教育学科。現、八戸学院短期大学)に出講していたのであろう。(以下続稿)

*1:ルビ「みかくにん」。

*2:ルビ「はちのへ」。

*3:ルビ「せんちようふじん・かはくち」。

*4:ルビ「ゆめ・うつつ」。

*5:ルビ「かじまち」。

*6:ルビ「しろしようぞく」。

*7:ルビ「たんき・はちのへし/たいけんほうこく」。

*8:ルビ「しやこう」。