瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山岳部の思ひ出(2)

 秩父両神山に登ったのが、泊り掛けで登山した最後だと思っていたのだが、翌年に雲取山に登ったことを思い出した。
 しかし、これも記憶が定かでなく、両神山の前年だったかも知れない。
 このときは友人も同行していたが、1人だったか2人だったか、これもはっきり覚えていない。――20年前のことを思い出せなくなって来た。
 秩父鉄道の終点三峰口駅からバスに乗って、大輪駅から三峰ロープウェイに乗ったのだろうと思うのだが、これも覚えていない。このロープウェイも10年前に廃止されたそうだ。三峯神社は曇って薄暗かったことばかり、印象に残っている。参拝して尾根伝いに南へ、雲取山荘に夕方着いて一泊。私は1:25000地形図に載る、山頂を巡るように山腹を通る山道を一周したように記憶する。そして、山荘近くの斜面にゴミが堆積していたのを見た記憶があり、その後、雲取山のゴミ報道を見てあれかと思い当ったのだが、今検索するに、ニュースになったのは、どうも、私が見たのとは場所が違うようだ*1
 翌朝、登頂して、そのまま東南東に向かう尾根伝いに奥多摩駅を目指す。途中、三ノ木戸山辺りでは小雨も降るような天候だったとぼんやり記憶する。かなり長い道のりだが*2、幸い、基本的に下り一辺倒のルートなので父もバテることなく、無事奥多摩駅まで下ることが出来た。駅前で父の奢りで山菜蕎麦を食べて、青梅線の電車で帰って来たのであった。

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 それに比べると高校時代のことはよく覚えている。
 私は山岳部入部以前から、2016年2月23日付「松葉杖・セーラー服・お面・鬘(15)」にも述べたように、1:25000地形図を手に、鎌倉や三浦半島横浜市の南部を自転車で駆けずり回っていたから、じきに先頭を歩くことを任された。山岳部では登山(山行と云う)が決まるとB6判の計画書を作成する。当時はA判は一般的でなく、B4判もしくはB5判が普通だった。それで、B4判のファクス原紙に書いて、生徒用の印刷機は生徒会室の輪転機しかないのだが、ボールペン原紙しか使えず綺麗に刷れないので、顧問に頼んで職員用の印刷機を使用させてもらっていた。そして半分に切って、袋綴じにホチキスで止める。私はそのうち、山行のルートを破線、尾根を太線、川や沢を波線で源流部は払って、簡略化して書く概念図を1年のうちから担当していた。
 どんなものかは「概念図 登山」で画像検索して下さい。――今はカラー印刷が普通らしくルートは赤、水流は青にしている。当時はカラー印刷が手軽でなかったから単色で、水流は線を震わせて「らしく」表現する必要があった。
 だから素養の点では同期の中では抜きん出ていたのだけれども、如何せんリーダーシップに欠けるので副部長であった。
 さて、山岳部は文化祭に参加する運動部で、毎年、教室を取って展示をしていた。夏山合宿の写真を掲示し、備品を並べるのである。テントなど高価なものも賑やかしに設置して置くので、必ず1人は防犯のために詰めていないといけない。私は展示や資料を作成するのが大好きなので、張り切って取り組み、そして留守に詰める役も積極的に引き受けていた。
 見に来る人は殆どいない。生徒の大半は体育館の舞台発表を見ているからである。3年生は全クラス、2年生は確か抽選で、劇を上演することが通例となっていた。だから教室展示を見るような人は殆どいないのである。山岳部の展示は確か南館2階の東端、この3階建ての教室棟は北側が廊下で、木の廊下できしんだような覚えがあるのだが、それはともかく、その南側に教室が並んでいるのだが、東端と西端の2教室のみ(1階を除いて)北に廊下がなくて、南も北も窓になっているのである。――この明るい教室で、体育館の喧噪を余所にのんびりと過ごすのは、気持ちが良かった。初夏の良い季節で、写真写りが悪いので私は殆ど写真に写らないのだが、このとき半袖のワイシャツ姿で黒板に掲示した夏山合宿の写真を貼った模造紙の前で撮られた1枚は、私にしてはよく撮れていたので記憶に残っている。プロフィール画像にしたいくらいだが、今どこに行ったか分からない。それはともかくとして、教室展示を一通り見ている親御さんがついでに山岳部にも訪ねて来ると、私は得意の弁舌を振るって説明にこれ努めるのである。しかし、それも滅多にないことだから、たまに訪ねてくる同級の友人と無駄話をして、テントの中に寝させたりして、――私の高校時代は決して明るくはなかったけれども、しかし、とにかくいろいろなことをやった。殆どモノにならなかったけれども、その1つ1つが、鮮烈に胸に刻まれている。
 しかし、まぁ、それは、私があまり人と付き合わずに、自分勝手に過ごしていたからだった。特に高2のときが酷かった。
 高2のクラスと合わなかったことは2016年4月2日付「万城目学『鹿男あをによし』(2)」にも書いた。クラスに貢献したくないから体育祭に参加しない、と云う屑ッぷりを発揮したのだが、今、思うに、文化祭にも参加しなかったのである*3。間違って(と云うか、親の希望で)進学コースに入ってしまったのだが、基本的に頭が良くどちらかと云うと真面目で前向きな連中で、文化祭も舞台発表を希望して、2年のうちから劇をやることになったのである。私はもちろん役者を希望しないし(希望したら絶対おかしいポジションにいた)裏方にも消極的で、結局何かの役目を割り振られたのだけれども、明らかに渋々やっているうちに「お前もう来んでええわ」みたいなことになって、私は堂々と勇んで山岳部の展示の準備に邁進したのであった。もともと山岳部の展示準備を理由に不参加傾向だったのかも知れぬ。だから、私は高2のクラスの舞台発表が何だったのか、覚えていない。一応その時間には体育館に行って、ひょっとすると客席から見ていた(!)かも知れない。だとしたら悪い奴だ。――けれどもその辺りの記憶はない。……よく覚えていると云っても、ピックアップされた部分だけで、細部は抜け落ちてしまっている。
 そんな訳で、1年のときと同じく、いよいよ誰も来ない山岳部の展示会場の、明るい教室で、1人、初夏の風情を愉しんでいたとき、事件は起こったのだった。(以下続稿)

*1:そうすると、この記憶自体が幻ではないかと思えて来る。

*2:3月29日付(1)に述べた、両神山で父が中双里ではなく(分岐点からだと)半分くらいの距離で済む白井差に下山したように、調子が悪いときに予定を切り上げて途中から早く下山するルートのことをエスケープルートと云って、泊り掛けの登山ではこれを確保して置くことが鉄則なのだが、このルートでは途中、南南東の奥多摩湖畔に下る道がいくつも分岐していて、その意味では安心であったが、――しかし、奥多摩は山が深いのでそこから10kmくらい歩かないと、奥多摩湖畔のバス停に辿り着けないのだけれども。

*3:1年の同級生(及び3年の同級生)とは普通に付き合っていたので、高2限定だった。昼の弁当は高1のときの同級生のところで食べていた。なんであんなに合わなかったのか、しかし私も気が強かった。所謂「キレる17歳」みたいなものか。