瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山岳部の思ひ出(6)

 しかし、新入生勧誘期間が終わって、5月になる頃には、私たちはもうすっかり諦めて、積極的に「山岳部を潰す」――備品の山分けの相談(!)を始めていたのである。
 「部員もおらへんようになるのに、残したかてしゃーないやろ」と云う理屈なのだが、たぶん、部員がいなくなっても部の備品を勝手に処分することは出来ない(だから復活の可能性が完全に消えた時点で全て廃棄処分になる)と思うのだが、私たちは結構真剣に、誰が何をもらうか話し合っていたのだから、今から考えると狂っていた。――敢えて弁護すると、そのくらい2年連続新入部員勧誘失敗、しかし、実は入部希望者がいなかった訳ではなかった(しつこいようだが、しかも女子!)と云う事実に追い詰められて、私たちの思考は、おかしくなっていたのである。
 3年生だけの部員だから、もう山行の計画もない。1学期の主要なイベントとしてはインターハイの予選がある。――那須岳の雪崩事故で犠牲者を出した、栃木県立大田原高等学校の山岳部が、栃木県のインターハイ予選8連覇中だったことが報道されている(同校HPの「山岳部」のページによる)けれども、それについて特に説明がないことにちょっと吃驚している。それだけ登山は一般的になったのであろうか?
 インターハイの予選が始まる頃、学校では予選に参加する生徒を体育館の壇上に並べて、壮行会をやった。別にスポーツ強豪校ではなく、普通の県立高校なのだけれども。そこで「山岳部」と紹介されると、ちょっとざわざわするのである。高2のとき、教室に戻ると、陸上部の男が私のところに来て「お前、山岳部のインターハイって、何すんねん?」と、咎めるように聞いて来た。「そやから、テントを張る速さとか、朝、起きてから飯食ってテントを畳んで出発出来るようにするまでの速さやな、それから、同じ重さの荷物を背負って同じ人数で同じコースをなるべく早く歩き通すんやん」と云ったようなことを説明すると、「そんなことして何が面白いねん?」と呆れられてしまった。この陸上部員が後に、2016年4月2日付「万城目学『鹿男あをによし』(2)」に書いた、私が体育祭のクラス対抗競技に参加していないことを(部活動対抗リレーには参加した)突っ込んでくれたのだが、別の機会には、「お前、何で山なんか登んねん?」と言って来た。マロリーの名言「そこに山があるから」で切り返しても良かったのだが、真っ当に「何でそんなこと聞くねん?」と反問すると、「登ったら下りて来な、いかんやないか」と言う。「当たり前や、登ったきりやったら、仙人にでもならなならん」と言って、この会話を切り上げたのだが、私たちの世代にはこういう発想が多いのか、ちょっと前にブームのあったスキーも、その後大学生になった私たちの世代には、流行っていなかったように思う。
 私は見ていないけれども、私たちより少し上の代の流行の傍証として次の映画を挙げて置く。
ホイチョイ・プロダクション私をスキーに連れてって昭和62年(1987)11月21日公開

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 どうも私らの世代には、面倒で、やる意味を感じられない行動を避ける・理解しようとしない傾向があるようだ。
 それはともかく、――兵庫県の予選は六甲で開催される。土曜日の夕方に実施会場に入って、まづテント設営の速さ、翌朝のテント撤収の速さ、それから部員4人で100kgの荷物を背負って、もちろん計量があるのだが、決まったコースを時間差で出発して、なるべく短時間で歩き通す、と云う内容で競った。私は高1、高2の2年、予選に参加した。メンバーは確か、高2の夏山合宿に参加した3名がメインで、もう1人は、高1のときは1学年上の副部長*1、高2のときは吹奏楽部の部長を参加させる訳には行かないので、高山の紫外線に堪え得ない男子を参加させて、体力もないので私たちが分担して、私は30kgを背負って、とにかく2日めのスピードアップを図ったのである。荷物の配分、それからペース配分を誤ると、弱い部員はバテてしまう。先に出発したそういうチームを何校か抜いたので、ゴールして、私たちには手応えがあった。2学期から来なくなった奴も、「今年は行けたやろ」と言っていた。
 「行けた」だろう、と云うのは、インターハイの全国大会に、ではなくて、2次予選に、である。この日曜の日中の1次予選で12校に絞られる。そうするともう1泊して、月曜の2次予選に参加出来るのである。
 そのために食料も2泊分準備して背負っている。出発前に前以て月曜日の公欠届を授業担当教諭に提出してある。しかし、結果は僅差の13位で、ぎりぎり2次予選参加を逃してしまった。通過校と別れて脱力感を覚えながら山を下り、電車に乗ってそのまま真っ直ぐ学校に帰る。
 月曜日、普通に登校すると、嫌味な教師から「××、お前、今日、公欠と違うんか」と言われてしまった。……ゴール直後には月曜休める、と思っていたのに。
 高3、最後の思い出にインターハイ予選に出よう、などと云う話にはもちろんならず、山岳部は全く休止状態であった。
 私は合わなかった高2のクラスでそのまま持ち上がりになるのを避けて、普通コースに変わって、高1のときに親しくしていた連中とも同級になり、前年とは打って変わって、緩い、のんびりした雰囲気の中で過ごしていた。放課後も、友人の1人が部長をしていた理科系の部活に顔を出すようになって、パソコンでテトリスをしていた。この部活にはユニークな後輩が多く、私は前年とは打って変わって、日に10倍くらい(さすがに大袈裟か)話して過ごしていた。
 そんなある日、山岳部の顧問から呼び出しがあった。放課後、高1の教室になっている新館の1教室に来るように言われ、高3一同、何やろ? と言いながら行ってみると、建築後何年も経っていない新しい校舎の、日当たりの良い放課後の明るい教室で、机が対面型に並べてあり、向こうに1年男子が5人並んで座っている。こちら側に3年5人が並んで座って、そこで顧問が説明を始める。要するに、――この年度、顧問は高1の担任になっていたのだが、5月連休が過ぎても部活動に入っていない男子生徒を呼んで、「お前ら、部活入ってへんと内申書に響くで」と脅し、そこで「山岳部、今やったら高3しかおらんから、後はお前らの好きなようにやってええ」と説得して、入部させた、と云うのである。
 いやいやいや、一応運動部で、そんな好きにしてええ、ってもんじゃないから、と突っ込みたかったが、勧誘に失敗した私らにそれを言う資格はない。そして、顧問は、
「お前ら、折角入ったんやから、厳しいこと言うたりして、辞めさせたらあかんで。……せやからお前ら、もう、来んな!」
と、私たちの追放を宣告したのである。
 備品の山分け、と云う話は雲散霧消した。もう高3は誰も部室に来ない。登下校時に前を通るから、毎日様子を見るのだが、放課後、いつ見ても部室には灯りがない。部室の鍵は顧問が持っている。放課後、職員室に取りに行って、帰る前に顧問の机に戻すのである。あんなことを言われて、実際、私たちにはもうすることがないのだから、鍵を取りに行っても「何すんねん?」みたいな顔をされる。いや、何もすることがないなんてことはない、いろいろと伝えるべきことがあるはずなのだが、顧問は私らに全くそういう役割を委任して来ない。
 あの部室にいたくない、と云うのは分かる。どうも、吹奏楽部に浸蝕されていない、新館の自分たちのクラスに屯しているらしい。そして走り込み等、トレーニングに励んでいる様子は全く窺えない。大丈夫なのか? と思うのだが追放されたのだ、発言権はない。案の定、全く体力のないまま夏山合宿に行って(どこに行ったのか知らぬが、まぁ、テントを張ってやっと登れる程度の山だったんだろう)みんなバテていたと、後で副顧問に聞いた。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 この辺りの経緯は、既に2015年8月10日付「吉田秋生『櫻の園』(2)」の末尾に、簡潔に書いたことがある。

*1:同じ代の部長もいたような気もするのだが、記憶が定かではない。