瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山岳部の思ひ出(3)

 事件と云っても、見物に来たガラの悪い連中がふざけて、テントを固定するペグやら、ピッケル*1やらを振り回しているうちに頭に刺さってしまったとか、そういう、物理的に衝撃的な事件ではない。いや、実際には何も起こらなかったのだ。私が心理的に衝撃を受け、それを未だに抜き去ることが出来ない、と云うだけで。

GRIVEL(グリベル) ネパールSA・プラス 58cm GV-PI175G58

GRIVEL(グリベル) ネパールSA・プラス 58cm GV-PI175G58

 ピッケルは大して形が変わっていないらしいが、ペグは私の慣れた形のものは今は出回っていないようだ。
 それはともかく、私の衝撃を説明するためには、話を高2当時の山岳部の状況から始めないといけない。
 ――1学年上の先輩は、男性3人に女性2人だった。私たちの代は、野郎ばかり5人だった。そして高2の春、私たちの次の代は0人、新入部員なしだったのである。
 そもそも、部室が怪し過ぎるのである。――南館の西側の階段の下、1階2階の間の踊り場の下のスペースが、引き戸で仕切って部屋にしてある。窓はなく、壁はコンクリートの打ちっ放し、暖色の裸電球が灯る。引き戸は普通の教室の入口の戸と同じで、私たちの入学する前には磨り硝子が嵌っていたと云うのだが、生徒会副会長をやってる1学年上の男子部員が、ふざけて拳法の真似事をしていて割ってしまい、その後に硝子ではなくベニヤ板を嵌めたのである。だから、戸を閉めると、階段の下の奥まったところに、ごく僅かな隙間から光が漏れると云う状態になる。これが不気味なのである。開けっ放しにしていても、やはり怪しい。たまに怖い物見たさのような按配で覗きに来る奴がいるが、窓がなく換気扇もないから、室内のキスリング(背嚢)やシュラフ(寝袋)に染み込んだ汗の臭い、湯沸かし炊事に使う石油コンロから発する石油の臭いが混ざり合って、独特の臭気が籠もっているのである。
MANASLU(マナスル) マナスル 96 2100

MANASLU(マナスル) マナスル 96 2100

MANASLU(マナスル) マナスル 121 2101

MANASLU(マナスル) マナスル 121 2101

 これも私たちの使っていたものとは違っているかも知れない。――私たちは毎日のことだから、まぁ臭いにも慣れたが、そうでない人は覗いただけでウッとなって、そのまま帰ってしまう。中でゆっくり話して帰った奴はいなかったと思う。一目見て「中、こうなっとんのやな」と積年の好奇心を満足させると、そのまま去って行く。
 私は中学が地元でなく、全く知った仲間のいない状態だったから、人に振り回されずに、中学で文化系の部活に入ってダラけてしまった反省から、高校では運動部に入ろうと決めていた。そして、山岳部の存在を知って、中学時代に1人で培って来た読図能力や脚力が活かせると思って、別に部室の怪しさは気にせずに1人で部室の戸を叩いたのだが、そうでない人にとっては、これはかなりのハードルである。
 実は初め、山岳部の部室はここではなかった。――文化祭の展示準備のために、部室に残っていた創部以来の25年余の書類を整理して、もとは部室に、体育館に併設されて並んでいる個室の1つが宛われていたことを知った。……いや「1つ」とは正確ではない、サッカー部と共用であった(らしい*2)。最初はそれで済んでいたのだが、何年目かに女子部員が入って来たのである。そうすると、サッカー部は男子ばっかりだから*3良いが、山岳部の方は女子の着替えに気を遣わないといけない。ところが、山岳部の男子部員はともかく、サッカー部の連中がなかなか協力してくれないのである。そこで、山岳部単独の部室の獲得が要望され、結果、階段の下のたぶん物置だったスペースに移ることが出来たのである。
 しかし、これは、不気味さと臭いを気にしなければ、悪くはなかった。教室棟である南館に部室があるのは山岳部だけである。教室から近い。雨天のときは走り込みや筋力トレーニングではなく、ラジオを聴きながら天気図を書く練習をしたり、階段の上り下りをしたりするのだが、他に放課後の南館で活動しているのは生徒会くらいだから、全く南館を我が物顔に振る舞っていたのだった。
 ところが、私が2年のときに、山岳部に一番近い1階の西端の教室が空くと、そこに吹奏楽部が移転して来たのである。
 それまで、吹奏楽部は人気のない、日が沈むと周囲が真っ暗になってしまう体育館裏のプレハブが部室で、人気がなかった。
 だから、2学年上の女子部員の弟である、私と同期の男は、初め中学のときにやっていた吹奏楽を続けるつもりはなかったらしいのだが、中学時代の仲間に乞われて人数の少ない(と云っても流石に山岳部よりは多いのだが)吹奏楽部と掛け持ちをしていた。――彼の家は学校の近くで私の通学路に面しており、夕方に前を通ると随分難しそうなピアノ曲を弾いていたものだった。音大を目指しているのだそうで、それを思うともともと吹奏楽部にいるべき人だったのだが*4、さて、吹奏楽部が明るい南館に移って、雨の日でも傘を差さずに済むようになると、それまで十数人しかいなかったのに、いきなり何十人と云う大所帯になってしまったのである。そして練習も、これまでは体育館周辺で山や空に向かって演奏していたらしいのが、放課後の南館の空き教室を我が物顔に、使うようになった。もう山岳部の生息する場所はなくなった。しかも、掛け持ちの彼が部長に推挙されて、そして一挙に増えた新入部員の指導と云う役割もあって、山岳部には殆ど関われなくなってしまったのである。
 そして課題曲の練習をしょっちゅう聞かされるようになったのだが、それが暗い、実に暗い曲なのである。

 この曲を間近で繰り返し聞かされているうちに、私たちはすっかり暗鬱な気分にさせられてしまったのである*5。そうなるべき理由は、既に存在していたのだから。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 話が高2の文化祭のトラウマにまだ達しないが、長くなるので、今日はここまでにする。(以下続稿)

*1:私たちの代は冬山(春山)には行かなかったので、部室にお飾り状態で転がっていた。

*2:これも記憶が定かでないが、とにかくどこかの部活と共用だったのである、向こうの方が力のある。

*3:当時は女子サッカーなんて発想自体なかった。

*4:彼は現在、兵庫県立某高等学校の音楽の専任教諭になって、担任も持ち吹奏楽部の顧問もしていることが今回初めて検索して分かった。――私の名前では同名異人が何人もヒットするので、検索してもなかなか特定しづらいのだが。

*5:最初はまぁ良い。打楽器抜きの管楽器のみで中間部を繰り返されると、本当にやりきれなかった。この模範(?)演奏のような盛り上がりはなく、ひたすら暗い印象を受けたのである。