・関川夏央『昭和三十年代 演習』(2)
『昭和三十年代 演習』と云う本についての確認で少々飛んでしまいましたが、それでは5月24日付(5)の続きで、『昭和三十年代 演習』に見える本作に関するコメントを見て置きましょう。
「第二講/「謀略」の時代──松本清張的世界観」は、初めに前置き(25頁3〜8行め)があって、以下13の節に分かれていますが、うち12節め、52頁14行め、4字下げ3行取りでやや大きく明朝体太字で「「汽車旅」のリアリティ」とあって、以下55頁(16行め)までが本文ですが、その冒頭で本作について述べています。
52頁15行め〜10行め、
『ゼロの焦点』という、意味不明ではあっても印象的なタイトルの推理小説は、『点と線』が刊行/された昭和三十三年に「太陽」に連載されました。これも彼が「社会派」の第一人者と認定される/のに大いに力あずかった作品で、金沢で名士の奥さんとなった女性が、終戦直後の米軍将校相手の/「オンリーさん」だった「恥ずべき過去」を隠すために連続殺人を犯すという話です。
この作品のラストシーンの舞台となった能登金剛が、観光地としての人気を博すようになったの/はこれ以後です。冬の荒れた日本海のイメージが定着したのもそうかも知れません。鉄道だけでは/なく、観光案内的要素を推理小説に加えたのは松本清張が最初です。崖の上での犯行の告白という/スタイルも、現代の「二時間ドラマ」に踏襲されていますから、恐るべき見通しのよさといえるで/しょう。
ただし、物語中で探偵訳となった主人公の女性が、年末に四回も金沢・上野を往復する設定はリ/アルとはいえません。当時の長距離列車の年末の混雑ぶりは、前回も述べましたけれど、いまでは/想像できないほどひどいものだったからです。
この「前回」と云うのは、「第一講/ 昭和三十年代的「物語」と「歴史」――『ALWAYS 三丁目の夕日』など」の6節め、12頁2行め〜14頁2行め「嘘と知りながら許す」の最後、13頁14行め〜14頁2行め、
もっといただけないのは、長距離列車です。お正月には帰省しないといっていた六子が、奥さん/に説得されて里帰りすることになるくだりです。
六子が乗った上野発青森行きの列車の車内がすいているのです。全然ぎゅうぎゅう詰めではあり/ません。六子は二人掛けの座席にひとり楽にすわり、川沿いの道を列車に並行して走る修理工場一/家のトラックに車窓から手を振ります。地理的関係のおかしさは咎めません。映画では許されます。/しかし、おおみそかの夕方の列車に列もつくらずに乗り、楽にすわれたりするのは、やはりリアル/ではありません。
を指しています。
以上の記述について、本作の該当箇所と照らし合わせて行きましょう。
まづ、③389〜470頁、最終章「ゼロの焦点」の、432頁14行め〜441頁6行め「6」節の冒頭、432頁14行め〜433頁6行め、
禎子は、朝、金沢に着いた。
元日で、駅前の食べもの店だけは開いていたが、街は正月らしく戸をしめていた。/薄い雪が積もっている。
金沢に来たのも、これが三度目であった。空は、灰色の雲が切れたり、つづいたり/していた。陽の加減で、街の屋根の一部に陽射しが移動していた。
駅は混雑していた。ほとんどが正月客で、スキー客も大勢まじっていた。昨夜の汽/車の中でも、東京からのスキー客の騒ぎで、半分は眠れなかった。
とあって、昭和33年(1958)12月31日(水)上野発の夜行に乗って昭和34年(1959)1月1日(木)朝に着いているのですけれども、関川氏は「四回も」としていますがここに「三度目」と明記されています。そして「混雑ぶり」にも一応触れてあります。しかし関川氏の「リアルとはいえません」と云う書き方からすると、どうも切符が取れないほどの「混雑」だったらしいのですが、実際にはどうだったのかは、当日実際に旅をした人にでも聞かないことには、分かりそうにありません。しかしながら、松本氏は『ALWAYS 三丁目の夕日』の制作者たちと違って同時代人なのであり、かつ、2016年7月16日付「小林信彦『回想の江戸川乱歩』(11)」に引いたように、最初の掲載誌「太陽」休刊後に引き継いだ掲載誌「宝石」の編集者による綿密な校閲も入っているのですから、簡単に「リアル」でないとは決められないように思うのです。(以下続稿)