瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

佐藤健二『浅草公園 凌雲閣十二階』(4)

 本書の主人公とも云うべき喜多川周之との関わりについては、9月17日付(1)に述べたるように、第三章「「十二階凌雲閣」問わず語り」の前置きに纏めてある。
 前置きの1項め、175頁12行め~178頁14行め「都市の故老」に拠れば、佐藤氏が喜多川氏に初めて会ったのは、175頁15行め「‥‥。/一九八三年(昭和五八)の冬ではなかっただろうか。」以下この初対面の舞台となった「日本人と娯楽研究会」と、そこでの喜多川氏の挨拶について、177頁5行めまで述べてある。そして6~7行め「 猿楽町のお宅にはじめてうかがったのは、おそらく一九八四年(昭和五九)の一〇月/頃である。確かかといわれると、自信がない。‥‥」以後佐藤氏は度々千代田区猿楽町の公営住宅に喜多川氏を訪ね、ヒアリング調査をしたことになるが、喜多川氏は昭和61年(1986)11月に歿しており、186頁16行め、その前に半年程「二度目の入院」をしていて、183頁2行め「最後」は「秋の病室」で会っているが、記録を取ったのは186頁19行め「一九八五年の暮れにお会いしたとき」が最後になるらしい。従って182頁12~14行め、

 もっとお聞きしておけばという、悔いもある。ずいぶんいろいろなことを教えてもら/ったようにも思うが、客観的にはほんのつかの間の出会いに過ぎず、のこされたヒアリ/ングのテープもあまり多くなかった。

と云うことになる。佐藤氏は日記・日誌を付けていないらしく、記録類にも日付を入れないのか明確な時期が示されないのだが、初めて会ってから喜多川氏死去まで3年、自宅を訪ねたのはそのうち1年余りの期間と云うことになる。
 喜多川氏は「十二階凌雲閣」研究を1冊に纏めることなく歿している。184頁13~14行め、佐藤氏はそれを「あつめて、あとから学ぼうとこころざす者が読める、そんなかたちで公刊/してみたらおもしろいし、ためになるのではないか、と考えたこともある。」のだが、15行め「その思いを別なかたちで実現したもの」が本書だと云う。私は喜多川氏の執筆したものを見ていないので、どのくらい読みにくいのか、統一が取れていないのか、184頁7~8行めに引用される槌田満文の発言「資料をあつめすぎて、関連が拡がりすぎて、一冊に「十二階」をま/とめてしまうのがむずかしくなったのかもしれないね」のような按配になっているのかが分からないのだけれども、188頁13~16行め「‥‥、「十二階ひろい書」をはじめとする論考では、資料として正確であろうと引/用を重ねたために、やや全体が見通しにくくなっている部分などもあって、それだけを/機械的に集めてならべても、喜多川さんの十二階の研究の本領は浮かびあがりにくいと/も感じた。」として佐藤氏は、186頁17行め「一九八六年三月作成」の15~16行め「著作/リスト」と、187頁11行め「私のヒアリング記録」をもとに、188頁16~17行め「のこされていたノートや著作などからの増補/をくわえて」喜多川氏の談話のような形で喜多川氏の浅草・凌雲閣十二階研究を纏めることを選択している。
 ここで前置きの冒頭を見て置こう。175頁1~11行め、

 この章の「問わず語り」は、私が編集・再構成した「聞き書き」である。ヒアリング/のテープ起こしそのままではなく、関連した話題について喜多川さんが書きのこしてい/ることを補っている。「虚構」や「創作」というと言い過ぎだが、編集や補足をふくみ、/語られたそのままではないということも見落とさずに受け止めてほしい。
 なぜ、そうしたやや特殊なスタイルを選んだのか、その理由をひとことでいえば、こ/のひとの十二階にかんする未完成のしごとを、できるかぎり幅ひろく紹介したかったか/らである。私が部分的に聞いたことだけでなく、著作から学んだことをふくめ、喜多/川周之の「十二階凌雲閣」研究を一定のまとまりにおいて提示したかった、だからこそ、/テープ起こしのたんなる校正補訂ではなく、論考や取材や対談での喜多川さん自身の解/説を参照して再構成した。
 その意味について、章のはじめにすこし触れておきたい。


 もちろんこれは、テープ起こしそのままでは使えないからでもある。187頁11~19行め、

‥‥。これもごく断片的/で、調査記録とはいえない世間話の連続でしかない。しかしながら、あるいは気楽に話/されたままであるがゆえに、これまで文章にしなかったような情報をふくんでいる。亡/くなられたあと、手元にのこっていたテープを他のひとにも手つだってもらって、ざっ/と書き起こしてみた。いつものようにきわめて多方面に話が飛んでいくおもしろい記録/ではあったけれど、固有名詞の不明や言いまちがいなどの不確かさも多くのこっていた。/この機会に可能な限り整理校訂して、不十分ながら本書での論考に活かしている。
 第三章の基本としたのも、その聞き書きのなかで、浅草と凌雲閣十二階にかかわる一/部分である。


 第二章と第三章の前置きにも「(×)ヒアリング記録から。」の脚註を添えて喜多川氏の談話が引用されているが、こちらは「浅草と凌雲閣十二階にかかわ」らない「一部分」なのである。――実際にはどのような按配で、全体としてはどのような内容になっていたかが気になるところだけれども。
 ここで思い起こしたのが、晩年の山田風太郎の談話を纏めた2冊の本、すなわち2016年9月5日付「山田風太郎『戦中派虫けら日記』(5)」に取り上げた関川夏央『戦中派天才老人・山田風太郎と、2016年9月6日付「山田風太郎『戦中派虫けら日記』(6)」に取り上げた森まゆみ『風々院風々風々居士―山田風太郎に聞く』である*1。私は関川氏の著書の方を高く評価しているのだけれども、関川氏が山田氏の談話を構成し直した手法が、佐藤氏のそれと似ているように思うのである。そして2016年9月7日付「山田風太郎『戦中派虫けら日記』(7)」にも述べたように、森氏の纏め方では、いくら忠実でもちょっとそのまま使う訳には行かないと思うのである。
 佐藤氏は「あとがき」の第三章に触れた箇所(410頁8~14行め)の後半、11行め以下、

‥‥。この章の方針も、別な出版社からは私ひとりの純/粋な研究成果でないからと、刊行に難色をしめされたりもした。喜多川さん自身のお考えをうかがうことはできないが、/著作の権利を継承しているご子息に私の意図を説明した。親父のしごとを覚えてくれていて、どんなかたちにせよ利用/してくれるのはありがたいと応援してくれた。そんなこともあって実験的なスタイルだが、あえて試みてみた。

と述べている。研究書としては実験的なのかも知れないが、しかし新聞・雑誌の談話記事なども、物によってはこのような纏め方をしているのではないか。上記関川氏の纏め方は、飽くまでも物語=読物としての纏め方だけれども、足らざるところを著作から補い、話題が分散するのを適度に纏めて、忠実ではないにしても、やはり話が分からないようでは困るのである。
 さて、この「問わず語り」も当然、この章の節立て通りに語った訳でもなければ、こんなに過不足なく語ってもいないのだろうけれども、しかし、そうは云ってもやはり、元の談話がどの程度のものであったかは、気になる。それは、この章に語られている話題の1つに、私が引っ掛かったからなのだけれども。(以下続稿)

*1:なお「あとがき」の最後(411頁15行め)に、森まゆみ(1954.7.10生)に本書を献呈する旨が述べてある。