瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

正岡容『艶色落語講談鑑賞』(25)

・豊田善敬・戸田学 編『桂米朝集成』(3)
 一昨日からの続き。――『【第四巻】師・友・門人』の巻末「初出一覧」459頁7行めに、

資料 艷色落語 紀州飛脚  『名作鑑賞・風流艷色寄席』あまとりあ社、昭和三〇年八月五日発行

とある。

風流艶色寄席:名作鑑賞

風流艶色寄席:名作鑑賞

 本文末(86頁18行め)にも「(昭和三十年八月)」とあって、確かに前回指摘した、冒頭「一」節(75頁5〜8行め)の改稿及び本文末の3行(86頁16〜18行め)の追加は、昭和30年(1955)夏時点での記述になっているのであるが、追加された記述にも見られる通り、最後の「六」節(86頁9〜18行め)、追加までの部分(86頁10〜15行め)は昭和27年(1952)現在で書かれていたのである。

 第三通めの米朝の手紙は、このあと大阪にも落語研究会が欲しいということや、文楽浄瑠璃と別派の/三和会が競演して『菅原伝授手習鑑』をJOBKで公開録音したことや、神戸のへちまくらぶなる風流/団体で自ら怪談噺を演ったことや、いろいろ上方らしい近況をつたえて来たのち、
「ごたごた書きつけましたが、今日はひとまずこれぎり。皆様によろしく。
  九月十三日                              桂 米朝 拝」
と終っている。


 これは恐らく昭和27年(1952)のことだろうから(それ以前、昭和26年の可能性もないではないが、まづ昭和27年で良さそうだ)「初出一覧」には引用元の単行本だけではなく、初出誌「あまとりあ」第二巻第十一号(昭和27年10月)についても注意して欲しいところなのである。
 なお、改稿箇所は前回指摘した以外にも何箇所かあることに、改めて読み直して気が付いたので、差当り初出誌を確認する際の参考として、抜き出して置こう。
 「一」節は門生・弟子についての雑談で、導入。
 77頁5〜10行め「二」節は改めて桂米朝について手短に紹介しているが、その最後の1行に、

 数年前その米朝が知らせてよこした上方艷色噺を順々に紹介して見よう。

と「数年前」としている。これは後述するように『艷色落語講談鑑賞』の執筆に当たって師弟でやり取りがあったはずなので、連載の始まった昭和26年(1951)以降「知らせてよこした」と見るべきだと思う。
 そして77頁11行め〜81頁「三」節に『尾上多見江*1』、続いて82〜84頁2行め「四」節に『鼠の耳』、そして84頁3行め〜86頁8行め「五」節に題になっている『紀州飛脚』の、合計3話を、在阪の弟子から、3通の書信を以て伝えられたものの如く紹介している。
 その「四」節の冒頭にも、82頁2〜6行め、

 つづいて桂米朝は、『鼠の耳』という上方噺をつたえて来た。
 先年死んだ桂春団治(先代が一世を驚倒させたので初代と呼び、当代を二代目としているが、じつは三代目。この例は落語界には多く、円遊・猫八、百面相の鶴枝みな然りである)君が得意にしていたそうで、それについて/米朝は、まだ故人が達者なころ上京来泊したとき、私に言った。
 米朝「しかしこれはなあ先生、河合さん(春団治の姓)の名は出さんとおいてやっとおくれやす」


 以下、その理由についての師弟の問答が描写され、82頁17〜18行め、

 私「わかった、わかった。噺そのものだけをかくことにするよ」
 こう約束して別れた私たちだったが、もうその春団治もなくなったから差し支えなかろう。

と云うのであるが、桂米朝が書信で『鼠の耳』を伝えてきたのは二代目桂春団治(1894.8.5〜1953.2.25)の生前で、だから初出誌「あまとりあ」に発表するに際し、注意すべきこととして直接伝えているので、初出誌の刊行も二代目桂春団治の生前、書信から初出誌発表までも、そう隔たっていないであろう。従って、ここもやはり単行本収録に際してかなり加筆されているはずで*2ある。(以下続稿)

*1:ルビ「おのえたみえ」。

*2:2月20日追記】ここに、投稿直後に「、すなわち「先年死んだ」としながら括弧内の「当代を二代目」が初出のまま修正されていないらしいところにも、このことが窺われるので」と加筆したのだが、初出では桂春團治の名は出してなかったはずなので「初出のまま」の訳がない。従ってここを削除する。