瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

講師室の思ひ出(2)

 昨日の続き。

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 土曜日に講師室にいるうち、訪ねて来る生徒が多いことに気付いた。
 私立高は転勤がないから、たまに転職する人や、早期退職する人もいるけれども、専任教諭は定年までそのまま勤務する。定年後も希望すれば数年だが非常勤講師として勤務出来る(そして非常勤講師の給与の安さに仰天する)。だから卒業生がよく母校に恩師を訪ねて来るのである。
 私は高校までただの公立校で、かつ、転勤族の倅で中学と高校は私の卒業を待って、その間父が単身赴任して、すぐに転居したので、卒業後に母校を訪ねたことは、教育実習で中学に行っただけなのだが、もう誰もいなかった*1。私の実習を担当した教諭が、中学時代の私を教えた教師を1人だけ知っていた。校舎は同じだったが、学区や学校の周囲、そしてリーゼントに長ランの番長がバイクで校庭に乱入して来た、市内でも荒れたマンモス校として知られていた当時の雰囲気は全く残っておらず、むしろ評判が良くて希望して越境通学する生徒もいると云うので吃驚した。とにかく今更訪ねても誰もいないのである。
 しかし、私立高は何十年経っても恩師がそのままいる。少し羨ましいような気もした。まぁ私の場合は、気軽に訪ねられる距離ではないので誰かがそのままいても訪ねようがないのだけれども。
 もちろん、社会人はなかなか来られないので、大学生が連れ立って来ることが多い。そうすると平日の夕方遅くか、大学の授業も早くに終わる土曜日の午後に来ることが多くなる。
 専任教諭は、良いのである。土曜は出勤している。早々に帰ってしまう人もいるけれども。しかし、職員室から講師室にも顔を出そうと立ち寄ってみると、いないのである。折角訪ねて来ても、講師には会わずに帰ってしまう。大抵の卒業生は、部屋を覗いて見て目当ての講師がいないらしいことを認めると、そのまま何もせずに帰ってしまう。私はそこを呼び止めて、一筆書かせたり、馘首されたり他の学校の専任に採用されたりして退職した講師については、その簡単な消息を伝えたりする。また今度来れば良い、と思うのかも知れないが、当時、雇い止めはしていなかったが、それでも非常勤講師と云うのはいつまで続くか分からない。次年度の契約がないかも知れない。それ以上に卒業生が訪ねてくれたことは励みにもなるから、板戸のところで少し隙間を作ったり、板戸の下が磨りガラスで上が透明になっているガラス窓のところで飛び跳ねたりして中を見ようとしている気配に気付くと、私は仕事を中断してさっと板戸に向かい、用件を尋ねたのである。
 知らぬ卒業生も多い。しかし、次第に私を訪ねて来る卒業生も現れて、もちろん、私だけに会いに来た訳ではないが、やはり、嬉しかったのである。だからこそ、誰かしら残っている平日の放課後はともかく、私しかいない土曜日には、出来るだけ講師室で夕方まで粘って、少しでも多く取り次いでやろうと思ったのである。
 だから、私は文化祭にも土曜日曜の2日来るようにしていた。
 大抵、普段の土曜日と同じように、のんびりと仕事しつつ講師室で過ごしていた。たまに生徒と約束していた展示や模擬店、公演を気分転換に見に行った。
 そこで、授業よりも生き生きしている生徒を見るのもいろいろ新鮮な驚きがあって良かったのだが、それ以上に私は、文化祭の日の講師室の、土曜日的な雰囲気が好きだっだのだ。
 だからこそ、あまり出歩かずに、殆どの時間を講師室で、溜まっている仕事をちんたら片付けながら、たまに訪ねて来る卒業生と話をする、そんな風にして文化祭を過ごすのが――例年のことになっていたのである。
 普段の平日放課後や土曜日と違って、社会人になった卒業生も顔を見せる。休みの日で、校内に自由に入れて、専任教諭は全員出勤している。恩師に会うのにこれほど確実な日はないのである。そしてついでに講師室にも来るのだが、講師の方は来ない人の方が多い。だから私は普段の土曜日と同じように、講師室にいたのである。遠くでバンドの音がしたり、外を歩く人々の喧噪、それを自分は参加しないながらぼんやり聞いているだけでも、何だかほっとするのである。
 しかし、文化祭でも次第に私を訪ねて来る生徒が増えて、毎年会うようになった。私はメールもSNSもやらないし、私が高校非常勤講師を始めた頃には個人情報漏洩防止のため名簿を作成しなくなっていたから、教職員の住所も分からなかったし、生徒にも卒業生にも自分の住所連絡先を教えなかった。その代わり、文化祭で毎年会えればそれで良いと思ったのである。文化祭に来られなくなって、すなわち会う機会がなくなったら、それが縁の切れ目なのである。
 馘首された翌年度、前年の文化祭で翌年の再会を約した手前、告別のためにももう1度講師室にいないといけないような気がして、文化祭は出入り自由だから、久し振りに女子高を訪ねて、ちょうど当時勤めていた共学高の定期考査が終わったところだったので、採点をしながらいよいよ出歩かずに講師室で2日間、昔の席でたまに訪ねてくる卒業生の応対をしていると、本当に昔に戻ったみたいだった。×年、この部屋にいたのだ。だから、半年いなかったとしても、もう元通りに馴染んで、すっかりくつろいで、嘗ての土曜日のように、仕事をしているのかしていないのか分からないような按配に戻っていたのだった。
 当時はまだ同僚も何人も残っていたから、再会して近況について話し、そして同僚が展示や公演を見に行った後で、1人残ってせっせと採点する*2
 そんなとき、ふと、私がここにいるのが本当で、私を馘首した人達がこの学校にいるのが(昨今の社会情勢下、困難な舵取りをしていることに、同情しないでもないが)嘘なのではないか、――そんな錯覚も覚えるのだった。本当に不思議な感覚だった。
 その後訪ねて来た卒業生に、そんなことを口にしたら、
「先生、小説みたい。……小説書きなよ」
 それで、直ちに書く訳にも行かないから嘗ての同僚が誰もいなくなってしまった機会を捉えて、小説ではないが少々書いてみる気になったのである。(以下続稿)

*1:実習は院の修士のときに行ったのだが卒業から10年も経っていなかった。その実習からさらに20年以上経っている。今、母校がどうなっているのか見当も付かないが、Google Earth等で外観はいくらでも眺められるのである。

*2:もちろん、誰も見はしないが名前のところに紙を当ててターンクリップで綴じて、席を外すときには鞄に仕舞って持って歩いた。