瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

正岡容『艶色落語講談鑑賞』(24)

・豊田善敬・戸田学 編『桂米朝集成』(2)
 このシリーズは、新聞・雑誌・パンフレット等に発表して単行本には収録されていなかった文章や対談を集成したものだが、中には纏まった記述のない事項に関して、編者が準備して聞き手を務めた〈新収録〉の対談・インタビューもあり、既刊の『上方落語ノート』全四冊(青蛙房)等と併せて参照することで桂米朝と云う人の考えや知識・記憶をより詳細に把握出来る労作なのだが、索引がないので数多く登場する有名・無名の人物について、特に無名の人物について、記載の有無を確認するのが難儀である。もちろん事項索引もないから演題についても同様である。もちろん読み込んで内容を十分把握した上で利用すべきなのだが、そうも言っていられないのでやはり索引は付けて欲しいと思うのである。――大学院生の頃には、私は索引のない本の索引を自分で拵えたものだったが、今はそんな暇もない。本当に私の院生時代は贅沢に時間を使っていた。その成果を公開することも当ブログを開設した理由の1つだったのだが、目先のことに追われて、なかなか昔やったことを再確認する余裕が持てない。やはり、飽くまでも手控えであって、完璧ではないのである。だから見直すといろいろ不満もあるし、私は図書館派で索引を作った本を持っていないから、所属館を探して借り出して、その上で改めて確認しないといけない。それが今となっては何とも面倒なのである。
 それはともかく、『【第四巻】師・友・門人』59〜99頁「二 わ が 師」は61〜86頁が正岡容、87〜99頁は四代目桂米團治についてで、75〜86頁に「資料 艷色落語 紀州飛脚*1」として正岡容の文章が収録されている。
 これは、2015年8月7日付(22)に触れた「あまとりあ」第二巻第十一号掲載の「艶色噺「紀州飛脚」」と同じものだと思う。「あまとりあ」の第一巻は昭和26年(1951)、第二巻は昭和27年(1952)、第十一号について、検索しても詳細な情報はヒットしないが、11月号(昭和27年11月1日発行)は買取サイトに目次が示されていて第十二号と分かる。従って、第十一号は10月号である。昭和27年(1952)12月25日発行の『艶色落語講談鑑賞』には第二巻第十号すなわち昭和27年(1952)9月号までの分が纏められていることになる。そうすると、最後、86頁9行めに始まる「六」節に言及されている「九月十三日」付の「第三通めの米朝の手紙」は、昭和27年(1952)9月13日付だろうと見当が付けられるが、最後の3行(16〜18行め)に、

 ……それから数年後の今年昭和三十年春、JOBKの演出で西下したとき、偶々宝塚での上方落語若/手研究会(ついに成立した!)へも行き、成長した米朝や小文枝、米之助、春坊などたのしく聴いて満足し/た。上方の空は青く、よい春の日がつづいていた。              (昭和三十年八月) 

とあって、ここは初出から「数年後」の昭和30年(1955)に加筆されたものであることが分かる。本文にも改稿があるらしく、それは「一」節(75頁3行め〜77頁4行め)の冒頭(75頁4〜8行め)に、

 私の門生のひとりに、桂米朝がいる。
 かつて大東文化学院に学んだころ私の門を叩き、はや十余年に及んでいる。昭和二十六年秋急逝した/桂米団治に話道を学び、復興途上にある上方落語界の若手として、いまBK(NHK大阪放送局)その他に/活躍している。あとがきでも書いたよう他の門生も新劇俳優や女流浪曲や――いかにも私らしいといえ/よう。

とあることが引っ掛かっていた。407〜457頁「九 桂米朝 年譜」で確認しても、正岡容の門人になったことは410頁「昭和一八年」条に見え、初出の昭和27年10月では数えで丁度10年にしかならない。まぁこれは正岡氏が正確に記憶せず、うろ覚えで書いた可能性もあるけれども、前年のことを「昭和二十六年秋」と書くのも、それから「あとがきでも書いた」も、妙だと思ったのである。
 そこで459〜464頁「初出一覧」を見るに、やはり『艶色落語講談鑑賞』以後の掲載分も「今年昭和三十年」に、単行本に纏められていたのである。(以下続稿)

*1:ルビ「きしゆうびきやく」。