慶應義塾大学文学部国文科で折口信夫(1887.2.11〜1953.9.3)に師事した宮本演彦(1909.3.29〜1992.8.17)の日記を元に、息子の宮本和男――小説家北村薫(1949.12.28生)が書いた史伝小説の3部作。四六判上製本。
①『いとま申して 『童話』の人びと』
・文春文庫
②『慶應本科と折口信夫 いとま申して2』
2014年11月25日 第1刷発行(349頁)定価1500円
・文春文庫
③『小萩のかんざし いとま申して3』
2018年4月5日 第1刷発行(461頁)定価2200円
・文春文庫*1
①を今日読み終えた。①②には文庫版も出ているが未見。
宮本氏は私の祖父と同年である。学年は私の祖父が1つ下。――当ブログに取り上げた同年の人としては、松本清張(1909.2.12〜1992.8.4)中島敦(1909.5.5〜1942.12.4)太宰治(1909.6.19〜1948.6.13)等がいる。
祖父の誕生日は、意識する機会がなかったので覚えていない。死んだのは6月24日付「本籍地(1)」に述べたように、平成2年(1990)4月であった。
さて、Amazon詳細ページを見るに、単行本②③のカスタマーレビューに、「ちゃむ」と云うHNの人が、前者(2018年5月10日)に「よい御身分だなあ」、後者(2018年5月17日)に「軽くムカつく」と云う感想を述べているが、ちゃむ氏がレビューを書いていない①のみを読んでの私の感想も――自分が10年以上大学院生だったことは棚に上げて――ちゃむ氏の上記の印象に近いのである。
曾祖父の代に分家した家でもともと農地が殆どなく、長男の祖父は尋常小学校までで学業を卒えた。小学校では祖父ともう1人、Wと云う成績優秀な生徒がいて、祖父とWは級長を隔年で務めていた。そして卒業後、ライバルのWは師範学校に進学したのである。中学校でないところに、Wの家もそれほど裕福ではなかったことが察せられるが、祖父のように家計を支える労働力になる必要はなかった訳である。
祖父は工員になるのだが、その細かい経緯を私は知らない。開戦前から軍需工場に勤めていて、戦時中は班長か何かをやっていたようだ。そのおかげで召集されずに済んだ。戦後は勤務先がなくなって困窮したらしいが、しばらくして軍需工場では部下だった人が事業を興して、そこに祖父は勤めることになった。私が生まれた頃には祖父は既に定年退職していて以後専ら盆栽の世話をしたが、私が遊びに行った頃には伯父(父の兄)が同じ工場に務めていた。昭和50年代だったか、その会社の役員がゴルフ会員権を買うことになった。ゴルフ流行りの時流に乗った訳だが、関東近県の会員権は高くて手が届かなかったものか、なんと四国のゴルフ場の会員権を買わされたのである。父は田舎の会社らしいそんな見栄を、少々滑稽に感じていたらしい。しかし自分でそんな話をして置きながら、大阪育ちの母に笑われると擁護するのである。――伯父が四国までゴルフをしに行ったとは聞かなかったから、工業高校卒の伯父は役員ではなかったのだろう。それにしても、役員の皆さんは四国に何度ゴルフをしに出掛けたのだろうか。
それはともかく、父が中学・高校の頃、祖父と伯父は既に働いており、父の2人の姉と1人の妹は農作業を嫌い(叔母は女子高の帰りに町で時間を潰して、なかなか帰って来なかったらしい)年の離れた末弟は小学生だったので、大した面積でもないのにあちこちに分散した畑での農作業を担当していた祖母に「○○、畑行くよ」と言われると断れない。こうして高校卒業まで農作業を手伝い続けたせいで父の背中は染みだらけになってしまった。
戦後、民法が変わったせいで、曾祖父が死んだときにただでさえ少ない農地を祖父は弟妹にも分割せざるを得なくなった。祖父は曾祖父の後妻*2と妻子を抱えていたが、継母の要求で弟妹とも均等に相続することとなってしまった*3。それでも苦しい中、自分が進学出来なかった悔しさから、6人の子供たちを高校まで進学させ、さらに学校の先生にさせたがった。と云うのは、ライバルのWが師範学校を出て教員になっていたからである。ところが、大学を出たのは父1人で、父も最初は祖父に言われるがまま教育学部に入ったものの、合っていないと考えて中退し、別の学部に入り直したので誰も教員にならなかった。ところが孫は半分くらい教員になったのだから不思議なものである。
だから、どうも、宮本氏の余裕にちゃむ氏のような印象を持ってしまうのである。祖父と同年だから、尚更そういう気分にさせられてしまうのであろう。そして、祖父が詳細に付けていた日記のことを思う。――父が40代の頃、少年期を回想するノートを作り、祖父に問い合わせる手紙を出したところ、祖父は自身の日記を引用して日付入りで細かく生き生きと、家族に起こった事件を知らせて来たのである。あの日記は今も残っているのだろうか。同年ながら宮本氏と違って学歴もなく、生まれた土地から全く動かなかった祖父の日記を、見てみたいと痛切に思う*4。
しかし、――60年以上の開きがあるけれども私は宮本氏に似たような大学時代を過ごしたのだから、境遇によってそこに納まるような生き方をすることになるのであろう。いや、私も「よい御身分だ」ったと思っている*5、まぁ今その報いを受けているような按配なのだけれども。
そう云えば、家人の祖母(1915.10.3生)の末弟が折口信夫の弟子だったのだが、國學院大學の方で、しかも宮本氏とは10歳以上離れているから、続篇を読んでも登場はしないであろう。(以下続稿)
*1:2021年9月1日追加。
*2:【2020年3月16日追記】実母は祖父が小学生のとき、スペイン風邪で死んだ。遺品に触ると伝染ると云うので形見分けもしなかったそうだ。同母妹が1人と異母弟妹が1人ずつの4人兄弟であった。
*3:当時独身で、教員をしていた異母弟は農地を相続しても仕方がないと思っていたらしいのだけれども。
*4:別の地方の海縁の町に転勤する話があったそうだが、実現しなかった。伯父も伯母も生涯動かなかった。
*5:父は文学・学問への憧れみたいなものを持ちつつ、初め親の言う通りの学部に進んで、次に就職を考えた学部を選択した(但し全く就職向きの専攻ではなかったのだが。)ので、息子には、継ぐべき家業も資産もない上は、好きな学問を十分させようと思ったのである。