瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(65)

・末広昌雄「雪の夜の伝説」(1)
 9月6日付(47)から「あしなか」第弐百弐拾四輯に掲載された末広昌雄「山の伝説」の本文について検討しました。そしてその最後、9月15日付(56)に「実は依拠したと思しき文献の見当が付いたのですが」と、書きました。この文献については今月の初めに閲覧していたのですが、美術大学の事件・怪異談について纏めるのにかまけて後回しになっておりました。
 それが昭和31年(1956)の「山と高原」二月号第二三三号・昭和卅一年一月廿五日印刷・昭和卅一年二月一日発行・定価九〇円・朋文堂・80頁)に掲載された、末広昌雄「雪の夜の伝説」です。
 当時は未見だったので念のため「依拠した」と書きましたが、本人の執筆で、かつ、これから比較して見ますが一見大きな異同もなさそうなので、「山の伝説」は旧稿「雪の夜の伝説」に依拠しつつ手を入れて、面目を一新したものとして投稿した、と云うのでなく、36年前の旧稿をそのまま使い回した――転載と云うべきものなのです*1
 よく、当該文献のみを閲覧してそれ以上当らない人がいますが、私は美術大学の事件の調べでもそうなのですが、それでは安心出来ない性質で、同じ人が同じ話について別に書いていないか、確かめないではいられないのです。同じことを繰り返し書く人は少なくなく、その、時間を置いて書いた複数の文献を調べることが出来れば、記憶違いや、紙数の制限で省かれた箇所など、より深く話の内容に分け入る手懸りを得ることが出来る訳です。もちろん、もっと客観的な資料(傍証)も必要ですし、別々の人が別に文献があることを知らずに書いたものを比較しても、種々の示唆は得られるのですけれども。
 それはともかくとして、まづ掲載誌について、当りを付けたところから述べて置きましょう。なお、国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧したので原本は見ていません。
 「国立国会図書館サーチ」で検索するに、末広氏には「あしなか」以外にもかなり雑誌への寄稿があって、これは一度「末広昌雄著述目録」でも作って整理した方が良さそうだと思って、「国立国会図書館デジタルコレクション」で検索してみました。しかし「国立国会図書館限定(/図書館送信限定)」公開のものばかりで、きちんとした目録を作成するには国会図書館に日参しないといけません。――取り敢えずコピーを取ってしまう、と云うやり方は、貧乏性で物を溜め込む割に整理して保管するのが苦手な私には無理で、とにかく現物を閲覧してメモを取る、と云う方式なのですが、院生時代暇だったのでそんなことが出来たのですけれども、時間はあっても金のなかった当時と違って、時間も金もない今は、どちらのやり方も難しくなっています。殆ど「インターネット公開」になっておれば、行かなくても出来ますし物も残りませんから、何とかなりそうなのですけれども*2
 それはともかく「国立国会図書館デジタルコレクション」の検索結果を見て行くと、末広氏は20代前半の昭和30年(1955)11月に「山と高原」に「冬山の伝説」を寄稿しているのですが、昭和42年(1967)4月の「あしなか」に寄稿した「大和の一本足」と同じ題で、既に昭和31年(1956)4月の「山と高原」にも寄稿していることに気付きました。そう思って見ると、昭和31年2月の「山と高原」に、「冬山の伝説」と「大和の一本足」の間に寄稿した「雪の夜の伝説」が、どうも「あしなか」第弐百弐拾四輯掲載の「山の伝説」と同じものらしく思えて来るのです。
 今にして思うに、「冬山の伝説」の可能性を考えても良さそうなものですが、何故か「雪の夜の伝説」の方がそれらしいと思って、専門の調べのため国立国会図書館に行ったついでに、このときに「週刊新潮」の記事を閲覧してメモを取ったのですが、その前に「山と高原」の昭和31年2月号を見るに直感通り「山の伝説」と同じものでしたので、複写を取って、奥付などをメモして、もう時間がありませんので末広氏が他に寄稿している分を一覧する余裕のないまま、引き上げたのでした。(以下続稿)

*1:11月30日追記】実際に細かく見ていくと「転載」は少し言い過ぎでしたが、しかしやはり旧稿にちょいちょい加筆を細かくしていたようなものであることは確かです。

*2:11月30日追記】しかしネットで読むのも面倒です。国会図書館デジタルコレクションをずっと見続けるにはA3判か、最低でもB4判くらいの大きさのモニタが欲しい今日この頃です。