瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森於菟『父親としての森鴎外』(2)

 1月6日付「小金井喜美子『鴎外の思ひ出』(2)」に、岩波文庫31-161-1『鴎外の思い出』の「解説」に初出に関する情報が少なく、かつ余り正確とは云えないことを指摘しました。
 私は初出は重要であると考えています。それが、いつ、どんな媒体に、どういう目的で書かれたか、と云ったことは、内容を査定する上でかなり大きな意味を持つと思うからです。特に回想の場合、早い時期の回想と、年月経て後の回想とでは、後者の方が関係者に対する遠慮がなくなって、かつて沈黙せざるを得なかった事柄にも言及出来るようになっている、等と云うこともあるでしょう。しかし総じて前者の方が信用出来るはずなのです。前者に既にして辻褄合せの虚構が入り込んでいる可能性も大なのですけれども、だから私は回想は、同時代の傍証で確認出来るかどうかを信用出来るかどうかのポイントにしています。尤も、傍証があれば全て信用出来る訳ではなく、10年後の回想はどうやったところで「10年後の回想」と云う断り書付きで使用されるべきものなのです。50年後の回想は「50年」と云う time lag を割り引いて考えるべきだと思うのです。
 だからと云って、私は後者が嫌いではありません。後者を(そして前者も)無批判に使用している人が嫌なだけです。余りにも事実から乖離してしまった後者の場合、どういうところが削げ落ちて、どういった嘘が入り込んで来るか、と云った辺りに非常に興味があるのです。――いづれにせよ、初出情報は(そのまま執筆時期を示している訳ではないけれども)読解時の目安として、非常に重要だと思うのです*1
 ですから、回想記を纏めた本で、初出にきちんと触れていない本はどうかな、と思ってしまうのです。
 さて、本書は著者本人が編んだ新書判では、各篇末に初出誌と発行年月、そして補筆を済ませた日付を添えていたのですが、叢書版*2で追加された文章には殆ど初出が示されておりません。
 その点、文庫版では、1月4日付(1)に触れた長沼行太郎解説 一つの鴎外論」の最後に*3初出情報を纏めて示しているのが非常に有益だと思うのです。すなわち、1行分空けて434頁13行めに「 最後に書誌的なデータをあげる。」として、以下、前半は新書判と筑摩版(叢書版・文庫版)との関係について述べ、後半に異同の例と判明した限りの初出を列挙しています。――この記述があるが故に、文庫版は叢書版よりも価値あるものとなっています。……思えば、10代の頃の私は「解説」があってしかも安い文庫版が出るのを待って本を買ったものでした。今はもう置き場所がないので……。(以下続稿)

*1:全ての回想について傍証を徹底的に捜すなど検討し尽くすことは出来ませんから、せめて初出という目安が欲しいのです。

*2:1月16日追記】投稿当初、ここを「では補筆の日付のみになってしまいました。」ここに註「叢書版で追加された文章には、全く年月が示されていないものもあります。」、そして「最終的に現在の形に整えられた日付だけ示して置けば良いと考えたのでしょうか。しかし、そのままの形を存していないとしても、初めどのような媒体に、いつ書かれたのか、を蔑ろにするのは(著者本人が入れていた訳であるし)良くない処置だったと思います。」と書いてしまったのですが確認が不十分で、新書判の初出は叢書版でもそのまま引き継がれています。叢書版で追加された文章に初出を示さないものが多く、執筆時期のみ示したものが散見されます。いづれ詳細を示すつもりですが、大きな誤りですのでこの本文は灰色太字のものに差し替えました。

*3:1月16日追記】ここに「、叢書版で一旦削除された初出情報を補っているのが」と書いたのは誤りであったので、灰色太字の本文に差し替えました。