瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森於菟『父親としての森鴎外』(6)

 前回、1月16日付(4)に引いた長沼行太郎解説 一つの鴎外論」が特に注意していた「観潮楼始末記」の前書きを引用した。この前書きは大雅新書版にはなく、昭和36年(1961)刊行の科学随筆全集9『医学者の手帳』収録に際して追加されたものである。今日はその続きで、筑摩叢書版(及びちくま文庫版)が省いてしまった「追記」を見て置こう。大雅新書版では本文は35頁12行めまでで、1行分空けて35頁13行めから37頁7行めまでが「追記」、8行めに下寄せの括弧でやや小さく、初出と改訂補筆の時期を示す。本文の最後の段落(35頁7~12行め)もついでに抜いて置いた。

 観潮楼の現在はかの「日和下駄」の「崖」に沿ふ往来に面する冠木門とそれにつづく籠塀だ/けが残つてゐる。時々東京に出て、その跡に隣りする、これも父の家の一部であつた弟の家に/宿しても、私はその門その塀に近寄る事をすらおそれてゐる。今年になつて近隣の人から焼跡/を空地利用の為に畑にしたいと云つて来たので私は喜んで使用してもらふ事にした。私はいづ/れあの跡に一片の標柱なりと建てて観潮楼の跡、そして私自身の魂の跡を弔ひたいと思つてゐ/る。
 
〔追記〕 以上の稿は今から十二年前私が台北帝大教授であった頃、土地の雑誌に求められて/執筆した随筆であるため、その後の事情を追加せねばならぬ。これを書いた頃既にいはゆる大/東亜戦争が始まつてゐたが、その結果として私個人としても未来の望をかけて親しんだ多くの【35】学生を失ひ、台湾の地は中国々民政府に帰属する事となつたので、台北の大学を中国の代表者/に接収される場面にも医学部長として立会はねばならぬ*1ことになつた。観潮楼の建物の主部を/なした二階建の方は前記の如く昭和十二年夏の失火で全焼したが、その北西につづいた平家一/棟は弟森類の住居として残り、そのほかに楼の外廻りの正門と籠塀と若干の庭木のあつたの/が、この戦争のために昭和二十年一月二十八日の夜、実に東京最初の空爆によつて、父の石像/と若干の庭石及び焼けただれた一本の銀杏樹を例外として一物をもとどめぬことになつた。
 弟の家が戦火に見舞はれる前からその家族は福島県喜多方町に粗開したので、その跡には私/の三男礼於(当時東京帝大理学部物理学科学生)が級友の服部学、柴田浩両君と共に留守番かたが/た寄宿してゐた。空襲当時服部君は郷里静岡県に帰省し、礼於は柴田君とこの家にゐた。九時/ごろから警報があつたのがやがて未曾有の大爆撃となり、邸内に落ちた焼夷弾数箇(その二は家屋命中)で、それは漸く消しとめ家の中の家具や書籍の一部は持ち出したが、周囲から延焼し/て来た炎に煽られて危ふくなつたため、煙をくぐつて北側の門から脱出して、団子坂下の汐見/小学校に避難した。それから駒込曙町の小金井家を訪ねたのは翌朝であつたといふ。その焼跡/は寂寥たるもので鴎外の白い大理石の胸像がさびしく立ち、その傍に一本の焼け焦げた棕櫚の/木があつたといふことを当時親しく訪れて写真を撮影した野田宇太郎さんが「芸林間歩」に書/いてゐる。その後焼跡は文京区役所の手によつて整地され、将来記念館の出来るまでとの約束【36】で児童公園とされたが、昭和二十九年七月九日、鴎外三十三回忌の日に、永井荷風さんの筆な/る「沙羅の木」の詩を刻んだ石面と作者武石浩三郎さんが磨いて下さつたので再び白く輝く胸/像とを中心として、谷口吉郎さんの設計、鹿島建設株式会社の工事担当による詩壁の除幕式が/行はれたのである。
 終りに一言いひたいのは、前に私は観潮楼が腐つて倒れるまでも私だけの責任で、誰も助け/てはくれず、史跡に指定されるなど思ひもよらぬと書いたが、その後十数年で今日のやうにな/つたことで、私は時勢の変化のはげしさにつくづく驚いてゐる。
          (昭和十八年「台湾時報」一―三月、昭和三十年二月二十八日改訂補筆)   


 さて、これを再録した科学随筆全集9『医学者の手帳』は未見だが、これを再編集した科学随筆文庫25『医学者の手帖』によって察することが出来るようである。次回はこれを引用して、若干の検討を加えて見よう。(以下続稿)

*1:引用は再版に拠るが、この「ぬ」が濃い。或いは初版の誤植を再版にて修正したかと思われるのだが、今手許に初版がないので差当り註にて注意して置くこととする。