瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森於菟『父親としての森鴎外』(5)

 1月16日付(4)の続きで、昭和36年(1961)刊行の科学随筆全集9『医学者の手帳』収録に際して追加されたと云う「観潮楼始末記」の前書きを見て置こう。私の見た筑摩叢書版(13頁2~12行め)ちくま文庫版(26頁2~13行め)そして科学随筆文庫25『医学者の手帖』(131頁2~11行め)の改行位置を、それぞれ筑摩叢書版「/」ちくま文庫版「\」、そして科学随筆文庫版は「|」で記入して置いた。引用は科学随筆文庫版に拠る。

 これは父鴎外が観潮楼を本郷区駒込千駄木町二十一番地、団子坂上に新築してから、そ\の命を終る/|日までの大部分をここに過した記録を私の思い出す順序に書きとどめ、さらに\父の死後私が台北帝国/|大学に赴任した留守に、二階建の楼が失火で焼け落ちたまでのこと\をつづったのを、彼の地の「台湾/|時報」という雑誌に寄稿したものであった。戦後私が帰\国してから「父親としての森鴎外」と題する/|随筆集(昭和三十年四月大雅書店)を出版する\に際してこの文を加え、なお旧稿の終りに「追記」とし/て、|父の旧宅の平家の部分で私の\弟の類が譲り受けて住んでいた家屋が東京の最初の空襲によって全/焼し|たこと、かくして\広い意味での観潮楼跡と呼ばれた鴎外旧宅跡全部を私と弟の名で文京区に寄付/し、|昭和二\十九年七月九日、父の三十三回忌を記念して「沙羅の木」の「詩壁」を建てたことを述べ/\た。今|度この随筆集に収めるに当って、追記の後にかの詩壁除幕式の日に発足した鴎外記\念会館の計/画の進|行状態を述べ、昭和三十七年一月十九日が鴎外生誕一百年に当ることを\明かにしておきたいと/おもう。


 筑摩叢書版及びちくま文庫版は誌名と書名を二重鍵括弧で括っている。
 文庫版の長沼行太郎解説 一つの鴎外論」では、筑摩叢書版(及びちくま文庫版)にて「旧稿の終り」に添えられた「追記」が省かれていることが指摘されていた。その前の「‥‥「父親としての森鴎外」と題する/|随筆集(昭和三十年四月大雅書店)を出版するに際してこの文を加え‥‥」の「この文」が、旧稿「観潮楼始末記」のことである。
 確かに、「追記」の内容はこの前書きに要約されているから、前書きにかいつまんで述べた内容を「追記」で長々と繰り返すのはどうか、と思ったのであろう。しかし、内容の精粗がまるで違うので、やはり煩を厭わず載せて置くべきだったと思う。
 著者の著作権は昨年末に切れている(50年で切れる最後の世代)ので、今は少々見づらくなっている「追記」について科学随筆文庫25『医学者の手帖』から引用してその全文を示し、さらに筑摩叢書版(及びちくま文庫版)がただ「追記」を省略したのみで新書版の状態に戻さなかったことで幾つかの情報が抜け落ちてしまっていることを、大雅新書版をも含めて次回以降検討して行きたい。(以下続稿)