3月7日付(07)及び3月8日付(08)に引いた、著者歿後、昭和53年(1978)9月刊行の科学随筆文庫25『医学者の手帖』の「観潮楼始末記」追記について。
初出の「台湾時報」は未見。これが戦後、昭和21年(1946)に養徳社から刊行された、森於菟『森鴎外』に収録された。森於菟『森鴎外』は昭和24年(1949)版も国立国会図書館に収蔵されているが、ともに国立国会図書館デジタルコレクションでは「国立国会図書館限定」公開で閲覧出来ないので、このとき本文に手が入ったのかは確認出来ていない。それはともかく、昭和30年(1955)4月刊の大雅新書2『父親としての森鴎外』に、3月6日付(06)に引いたような〔追記〕が添えられ、これは再編集版である科学随筆文庫25『医学者の手帖』からの類推なのだけれども、昭和36年(1961)12月刊の科学随筆全集9『医学者の手帳』では3月7日付(07)に見たように「追記一」となっている。
このとき、大雅新書版では〔追記〕の後、最後に初出誌と「改訂補筆」の日付が添えられていたのが、科学随筆全集版(科学随筆文庫版)では、本文末に3ヶ月連載された初出誌の、3号めの年月が添えられ、誌名は「追記一」の中に加筆され、そして「追記一」の末尾に大雅新書版の「改訂補筆」の日付のみが添えられているのである。
ところが、昭和42年(1967)12月に著者が歿し、1月4日付(01)に見たように三回忌の昭和44年(1969)12月に未亡人の編集によって筑摩叢書159『父親としての森鴎外』が刊行されるのだが、このとき、筑摩叢書版の文庫化であるちくま文庫『父親としての森鴎外』の長沼行太郎「解説 一つの鴎外論」に指摘されているように、科学随筆全集9『医学者の手帳』に新たに添えられた冒頭部(前書き)を残して、追記を全て削除してしまった。そのため、筑摩叢書版(ちくま文庫版)では末尾が「(昭和十八年三月)」になってしまい、他の大雅新書版から継続されている諸篇には存している「改訂補筆」の日付も、なくなってしまったのである。
筑摩叢書版(ちくま文庫版)が引き継いでいる前書きは、3月6日付(06)に引いた〔追記〕の要点は押さえてあるが、3月5日付(05)に引いて置いたようにかなり簡略である。それだのに〔追記〕=「追記一」を削除することにしたのは、3月8日付(08)に引いた「追記二」及び「追記三」の鴎外生誕百年記念事業の途中経過を載せることに、意義を認めなかったからであろう。すなわちそのとばっちりで「追記一」まで削ってしまったらしく思われるのである。ところで「追記二」は日付から 科学随筆全集9『医学者の手帳』刊行に際して加えたもので、一旦、9月の誕生日の日付で最後の段落の半ばまで書き、校正段階でさらに書き足したもののようである。「追記三」は増刷時に添えたもので、昭和38年(1963)版があるのかは未確認だが、国立国会図書館には昭和41年(1966)版が所蔵されている。(以下続稿)
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残念ながら復興は進んでいないらしい。私の考えは2011年4月15日付「港屋主人「劇塲怪談噺」(3)」或いは2012年3月11日付「夏目漱石『硝子戸の中』の文庫本(1)」に述べた。とにかく現地で直ちに生活再建を進めさせるべきだったと改めて思う。嵩上事業は土建屋に対するばら撒きみたいなものだろう*1。本当に役人や政治家と云った連中はすぐに土建屋的発想に走りたがるのだが、あれでは上手く行かないことは本当は解っていたのではないか。しかし何が本当に重要かを語る意識も言葉も持たないから、予算至上主義の連中はこれまで通りの道を歩きたがるのである。――嵩上事業の惨憺たる現場その他を見るのが辛いので、震災関連の番組は見ないことにした。
*1:しない方が良かった、と思う。――する必要がなかった、と云うと神経質に反撥する人がいるかも知れないが、私はむしろ積極的に反対したかった。しかし「国民の生命」や「安全」を守る、とか云う大義名分でやられるので、厄介なのである。私は沿岸部が数十年から数百年に1度、津波に襲われるのは自然にそうなっていたのだから仕方がないと思っている。本当に「国民の生命」や「安全」を守りたいのであれば、九州・四国・紀州・東海の太平洋沿岸の、歴史的にも大津波に襲われてきた地域の住民や居住地域を何とかするべきであろう。それを、せいぜい避難計画・ハザードマップ程度で済ませて置いて、東北の被災地にばかりあのように大仰な地形変造を行ったのは、結局土建工事をやる口実が出来たところを弄り尽した、と云うことでしかないように思われてならないのである。