・別冊太陽 日本のこころ 193「森鴎外 近代文学界の傑人」(3)
・83~93頁「父なる鴎外」の章は山崎氏による説明はなく、子供たちの回想を引き、子供宛の書状などの写真を掲出しているが、90~91頁「杏奴のために/教科書を手作り」については、90頁中央の明朝体白抜き横組みのキャプションに以下のように説明されている。
二女・杏奴のために、歴史と地理の教科書の/内容を、鴎外が要約した「手作り教科書」。鴎/外が杏奴に教えながら傍線などを加え、要点/を示した。鴎外最晩年に作られたと思われる。/表紙には鴎外が毛筆で、「史」(歴史)「地」(地/理)と記している。世田谷文学館蔵
さて、もう1つのキャプション、90頁左下には、
歴史の教科書は全75頁で金銭出納帳に書かれていた。「天照/大神」から始まり、最終頁は「欧州大戦ト我国ト―二」。頁の/左上余白に、西暦から皇紀の引き算が記入されている。
とあるのだが、写真で見る最終頁の題は「○歐洲大戰ト我國トノ二」と読める。他に掲出されている頁、90頁上左「○關東地方ノ一」91頁上「○ヨーロツパ洲ノ三」下「○德川家康ノ一」との題からしても「―」ではなく「ノ」だろう。なお、「左上余白」の「西暦から皇紀の引き算」だが「2582/-1922」だから「皇紀から西暦の引き算」であり、西暦の数字からこれが大正11年(1922)に作られたことは、91頁左上に引かれている小堀杏奴『晩年の父』の本文からも間違いないところであろう。
欧洲大戦については2014年7月27日付「中島京子『小さいおうち』(41)」に触れたことがある。
この章にはさらに94~98頁、青木宏一郎「鴎外のガーデニング 「花暦」と作品」が添えてあるが、95頁上の写真、下に添えてある明朝体横組みのキャプションに、
1894(明治7)年、父・静男(右)と弟・潤三郎。観潮楼の庭にて撮影か。文京区蔵
とあるのだが、基準となる人物がいない限り「右」と云えば「向かって右」だろう。白鬚の老人が左、少年が右に写っている。なお1894年は明治27年。(以下続稿)