瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森於菟『父親としての森鴎外』(7)

 昨日の続きで「観潮楼始末記」の「追記」について、著者歿後の科学随筆文庫25『医学者の手帖』に載るものを抜いて置こう。やはり本文の最後の段落、151頁13行めから引くこととする。加筆箇所は仮に太字とし、違う語句に置き換えた箇所は同じく仮に灰色太字にして示した。異同としては現代仮名遣いにした他、漢字をかなり平仮名に開いているが、これらは一々拾わなかった。

 観潮楼の現在はかの荷風「日和下駄」の「崖」に沿う往来に面する冠木門とそれにつずく籠塀だ/けが残っている。時々東京に出て、その跡に隣りする、これも父の家の一部であった弟の家に宿し/ても、私はその門その塀に近寄ることをすらおそれている。今年になって近隣の人から焼跡を空地利/用のために畑にしたいといってきたので私は喜んで使用してもらうことにした。私はいずれあの跡に/一片の標柱なりと建てて観潮楼の跡、そして私自身の魂の跡を弔いたいと思っている。
                                     (昭和十八年三月)【151】
    追 記 
 以上の稿は今から十二年前私が台北帝大教授であったころ、土地の雑誌「台湾時報に求/められて執筆した随筆であるその後の事情を追せねばならぬ。これを書いたころ既にいわゆ/る大東亜戦争が始まっていたが、その結果として私個人としても未来の望みをかけて親しんだ多くの/学生を失い、台湾の地は中国国民政府に帰属することなったので、台北の大学を中国の代表者に接/収される場面にも医学部長として立ち会わねばならなかった。観潮楼の建物の主部をなした二階建の/方は私に譲られたが前記のごとく昭和十二年八月十日の失火で全焼したが、その北西につづいた平家/一棟は弟森類の住居として残り、そのほかに楼の外廻りの正門と籠塀と若干の庭木あったが、この/戦争のために昭和二十年一月二十八日の夜、実に東京最初の空爆によって、父の石像と若干の庭石/および焼けただれた一本の銀杏樹を例外として一物もとどめぬことになった。
 弟の家が戦火に見舞われる前からその家族は福島県喜多方町に開したので、その跡には私の三男/礼於(当時東京帝大理学部物理学科学生)が級友の服部学、柴田浩両君と共に留守番かたがた寄宿してい/た。空襲当時服部君は郷里静岡県に帰省し、礼於は柴田君とこの家にいた。九時ごろから警報があっ/たのがやがて未曾有の大爆撃となり、邸内に落ちた焼夷弾数個、そのは家屋命中した。それ/をようやく消しとめ家の中の家具や書籍の一部は持ち出したが、周囲から延焼して来た炎に煽られて/危うくなったため、煙をくぐって北側の門から脱出して、団子坂下の汐見小学校に避難した。それか/ら駒込曙町の小金井家を訪ねたのは翌朝であったという。その焼跡は寂寥として鴎外の白い大理石の【152】胸像がひとり淋しく立ち、その傍に一本の焼け残った棕櫚*1の木があったということを当時親しく訪/れて写真を撮っ野田宇太郎さんが「芸林間歩」第二号(昭和二十年四月)に書いている。その後焼跡/は文京区役所の手によって整地され、将来鴎外記念館のできるまでとの約束で児童公園とされたが、/昭和二十九年七月九日、鴎外三十三回忌の日に、永井荷風さんの筆なる「沙羅の木」の詩を刻んだ/石面と作者武石浩三郎さんが手入れをし磨いて下さったので再び白く輝く鴎外胸像とを中心として、/谷口吉郎さんの設計、鹿島建設株式会社の工事担当による詩壁の除幕式が行われたのである。
 終りに一言いいたいのは、前に私は観潮楼がくさって倒れるまでも私だけの責任で、誰も助けては/くれず、史跡に指定されるなど思いもよらぬと書いたが、その後十数年で今日のようになったこと/で、私は時勢の変化のはげしさにつくづく驚いている。        (昭和三十年二月二十八日)   


 長くなったので、今回は昨日と同じ箇所までとした。本文は末尾の年月も含めて筑摩叢書版(及びちくま文庫版)に踏襲されている。――大雅新書版に収録された6篇中、「観潮楼始末記」と「鴎外の健康と死」が科学随筆全集9『医学者の手帳』に再録されているが、全体に細かく手を入れているらしい。そのことは別に検討することとしよう。
 「追記一」はやや大きく2行取り。「一」となっているように、続いて「今度この随筆集に収めるに当って、追記の後に」添えられた「追記二」があり、さらに科学随筆全集9『医学者の手帳』の初版にはなかった「追記三」もあるのである。(以下続稿)

*1:ルビ「しゆろ 」。