瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

同盟通信社調査部 編『國際宣傳戦』(7)

 昨日の続きで、新聞通信調査会HP「メディア展望総目次(年)」から、内海紀雄「一通信社記者の「昭和」~その軌跡を手紙と日記に見る」の(XI)から最後まで見て置きましょう。要領は5月5日付(2)に同じ。
・第591号平成23年4月1日発行・40頁)13~15頁「敗戦に「自失の体」「地団太を踏む思い」」 (XI)
 昭和18年(1943)11月、家族を連れて帰郷中に喀血。12月12日古野伊之助社長より来信、暮れに「特別賞与」500円。12月19日付浅野豊宛書簡。昭和19年(1944)は秋以降の日記が残る。9月25日条。13頁中段2行め、1節め「苦戦下の「大東亜戦三周年記念日」」11月20日・30日・12月5日・8日条。下段13行め、2節め「友人の手紙見て「戦局痛心の至り」」12月20日、昭和20年(1945)1月10日・13日・18日条。昭和20年の日記は1月のみ残る。14頁上段左に「古野社長から届いた直筆の見舞状への謝意を友人に伝えた父の手紙=昭和18年12月19日付、五島から浅野豊氏宛て」墨書。中段21行め、3節め「同僚と逓信人の励ましを支えに」日記に見える同盟通信関係者の厚意。1月26日条。下段左に顔写真「聯合・政治部以来の友人、萩野伊八同盟編集局次長。「萩野君」「伊八君」と呼んで日記に登場する=昭和17年1月 (令息の萩野弘己氏提供)」。15頁上段6行め、4節め「「長崎に変な爆弾が…」」昭和20年6月5日山下宏宛葉書。原爆投下の情報。上段20行め、5節め「「戦争は実に意外な残念至極な結果に」」昭和20年9月3日(中断)浅野豊宛書簡。下段8行め、6節め「「戦争は実に意外な残念至極な結果に」」昭和20年10月4日付(再執筆)浅野豊宛書簡。
・第592号平成23年5月1日発行・36頁)32~34頁「同盟解散、古野元社長に戦犯容疑…病床から気遣う」(XII)
 32頁上段1行め、1節め「「新聞界、日本はどんな方向に?」」昭和20年10月4日付浅野豊宛書簡。下段1行め、2節め「同盟解散と同時に退社」昭和20年10月18日付(26日着)浅野豊書簡への27日付返信。同盟通信解散と同じ10月31日付で退職、退職金27ヶ月分6100円支給。33頁上段18行め、3節め「時代の転換への期待感民主化の動きに、大正期、暁民会に参加、日本社会主義同盟の創立大会に参加して検束され、父に郷里に連れ戻され運動から離れた過去を追想。上段左に写真「没後50年に故郷に建立された内海朝次郎句碑。〈落椿踏みつつ来れば海近し〉の句が刻まれている」。中段25行め、4節め「俳句の師・大橋八郎元次官に同情」大橋八郎(1885.12.19~1968.6.4)に昭和18年、帰郷静養を勧められる。田舎からの句稿の添削。下段左に写真「大橋八郎元逓信次官(俳号越央子)=句集か」、その右に短冊を2つ並べた写真「短冊。左は大橋越央子、右は内海朝次郎」。俳句は五島在住のホトトギス同人・大野きゆう(1874〜1947)の教えも受ける。10句紹介。昭和21年(1946)1月7日付浅野豊宛書簡。34頁上段21行め、5節め「浅野氏から「時事の経営に四苦八苦」」昭和21年3月以降の浅野豊書簡。中段21行め、5節め「高進するインフレに悲鳴」昭和20年10月・昭和21年4月の浅野豊宛書簡、昭和21年7月・9月の武者幸四郎宛書簡。
・第593号平成23年6月1日発行・36頁)21~23頁「今も問う「戦争とジャーナリズム」のありよう」(XIII)・完
 21頁上段1行め、1節め「時事通信社の首脳陣対立」昭和20年11月11日付浅野豊宛書簡。昭和21年6月21日付浅野豊宛書簡。中段14行め、2節め「村田氏から新刊の『世界』」昭和21年8月9日消印村田為五郎葉書。下段9行め、3節め「古野氏非難に「痛憤」」昭和21年6月21日付浅野豊宛書簡。22頁上段左に写真「友人や親戚のもとで保存されていた父の封書とはがき」。中段1行め、4節め「古野氏の出所を喜ぶ」昭和21年9月7日付浅野豊宛葉書。中段17行め、5節め「戦地で自決した旧部員を悼む」昭和21年6月7日付武者幸四郎宛書簡、昭和21年6月21日付浅野豊宛書簡。下段左に写真「闘病を支えた同盟人と友人。前列右から浅野豊、長林密蔵、大平安孝、有竹修二、後列右から武者幸四郎、田崎与喜衛の各氏=昭和47年秋、東京へ転勤した筆者の歓迎会で」。23頁上段7行め、6節め「日本軍閥について酷評を記す」昭和21年6月の岩波文庫版『孫子』扉への書入れ。上段20行め、7節め「「生死の彼岸を見よう」――最期」古い手帳を再利用した句日記、昭和21年10月17日・11月30日・12月5日条。11月8日付、村田為五郎宛、大川幸之助宛に自作の句を添えた便り。12月9日、五島列島の自宅で歿、享年四十七。下段3行め、8節め「生きづらい「昭和」の時代」まとめ。(以下続稿)