瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(09)

・「三田村鳶魚全集月報」の座談会(2)
 昨日の続き。
 三田村鳶魚全集月報」第27号(昭和52年6月・12頁)の1~12頁下段17行め、松本亀松吉田幸一/(司会)朝倉治彦三田村鳶魚輪講会」は、朝倉治彦 編『鳶魚江戸学 座談集365~383頁に「鳶魚の輪講」と改題されて収録されている。
 「月報」には、3頁上段の左上に「右より松本亀松吉田幸一朝倉治彦の諸氏」とのキャプションを添えた写真が掲載されているが、前回見たように『鳶魚江戸学』は写真を再録していない。また、末尾(12頁下段17行め)に下寄せで「(昭和五十二年五月十七日)」とあるがこれも『鳶魚江戸学』では省かれている。
 1節め「三田村鳶魚の教育法」の、冒頭の朝倉氏の発言が、まづ違っている。
 「月報」1頁上段6行め~下段1行め、

 朝倉 本日は、日本大学で長年にわたり教鞭をおとりになっ/ておられた松本亀松先生と、東洋大学吉田幸一先生をお招き/いたしました。松本亀松さんは大正末期から三田村鳶魚先生の/もとに出入りされ、当時創刊された『彗星』の編集に参画し、/三田村先生の主催された輪講にもたびたび出席された方です。/吉田幸一さんは、戦後の鳶魚先生の西鶴輪講会に初めから終り/まで出席されておられましたので、今回は、本巻全二十七巻の/最後の座談会でもありますし、鳶魚先生の終生続けられた重要/なお仕事の一つでもある輪講のことを中心にいろいろお話をう/かがいたいと存じます。
 ところで、松本さんは、当時の三田村先生をご存じの数少な【上】いお方のお一人ですが、いつごろ先生の所へまいられたのですか。


 『鳶魚江戸学』367頁2~5行め、

朝倉 本日は、長年日本大学で教鞭をおとりになっていた松本亀吉先生と、東洋大学吉田幸一/先生においでいただきました。鳶魚先生をよくご存じのおふた方には、鳶魚先生が終生続けられ/た重要なお仕事の一つでもある輪講のことを中心に、お話をうかがいたいと存じます。
 松本さんは、直弟子といいますか、先生のところへお入りになったのはいつごろですか。


 何故か「亀吉」と名前を間違っているのはともかくとして、全体に随分簡単になって、どうも不自然である。前回注意したように巻末に「座談会参加者略歴(収載順)」を加えたことで紹介を省いたのであろうか。しかし、そこでの紹介は435頁下段6~13行め、

松本亀松(まつもと・かめまつ)
一九〇一―八五。能・日本舞踊の研究家。元日本/大学芸術学部教授。著書『能から歌舞伎へ』『狂/言六儀の研究』。
吉田幸一(よしだ・こういち)
一九〇九年生れ。国文学研究家。東洋大学名誉教/授。「古典文庫」主宰。著書『和泉式部研究』/『狭衣物語』(校訂)など。

とごく簡略である(氏名は明朝体太字、二重鍵括弧閉じと行頭の開きは半角)。まづこのような紹介があった方が読者も取っ付き易いのではないか。
 「最後の座談会」の件がなくなったのは『鳶魚江戸学』では「配列」を変えて21篇中19番めにしたからであるが、朝倉氏も座談会を重ねるごとに知識を蓄えて行った訳だから、配列を変えたのでは、その前提がまちまちになってしまう。やはり余り手を入れずに、27篇全部を順を追って収録するべきだったと思うのである。そして、前回省いていることを注意した「月報」の末尾に添えてある座談会実施日を、むしろ最初に示して置けば良かったのではないか。こういうものは歴史的な証言なのだから(「月報」の方も当日の発言そのままの記録ではないにしても)、内容が変わらなければ良いと云うものではないと思う。
 それはともかく、この朝倉氏の問いに対する答え、「月報」1頁下段2~16行め、

 松本 大正十五年です。私が二十六歳の時です。
 朝倉 どういうご関係から、三田村先生のところにいらした/んですか。
 松本 三田村さんには、その以前からご面識を得ていました。/当時、私は下谷の吉田書店によく行っていました。通称「下/吉」ですね。これは浅草に浅倉屋という名前の本屋の吉田があ/ったので、それと区別するために、「浅吉」「下吉」と言われて/いたんです。その「下吉」の主人の吉田吉五郎という老人が、/俳書の知識ではたいへんな大家でした。たとえば、例の勝峰晋/風さんの『俳書大系』は、実のところ、吉田吉五郎が知ってい/た本を並べたので出来たんだといわれたくらいの人でした。ま/あその話は少しオーバーでしょうが、実際、たいへんな学者で/した。それでこの「下吉」の吉田書店に、私が行きはじめたの/は中学生のころからで、三田村さんもよくこの吉田に来ておら/れたので、存じあげたわけでした。


 『鳶魚江戸学』367頁6~12行め、

松本 大正十五年です。私が二十六歳の時です。
朝倉 三田村先生との出会いは。
松本 私は中学生のころから下谷の吉田書店によく行っていました。吉田という本屋は浅草にも/浅倉屋という屋号のがあって、それぞれ通称「下吉」「浅吉」と呼ばれていました。「下吉」の主/人吉田吉五郎は、俳書の知識ではたいへんな大家でした。例の勝峰晋風さんの『俳書大系』も、/実のところ吉田吉五郎が知っていた本を並べて出来たんだといわれたくらいの人でした。三田村/さんも、よくこの吉田に来ておられたので、存じあげたわけでした。


 昭和初年の『三田村鳶魚日記』には「松本生」がしばしば登場する。――しかしこれでは、昨日引いた「編者あとがき」の「読みやすく読点を多く加え、若干振がなを施した」どころではない。(以下続稿)