瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(15)

・皆川家との関係(2)
 4月30日付(14)に、私は江戸城のトイレ、将軍のおまる 小川恭一翁柳営談で小川恭一が八重夫人の妹「操」とその結婚相手皆川豊治について語っていることは、小川氏が三田村家に出入りしていた当時の伝聞及び印象に基づくものだと述べました。
 伝記研究みたいなことをしていると、しばしばこのような証言にぶつかります。すなわち、――晩年の弟子が、若い頃の師匠がモデルの小説や、会ったことのない家族や大師匠について語っていることを、本人を直接知っている人物(関係者)の証言として使用している例をたまに目にします。しかし私はこれまで当ブログでも縷々述べて来た通り、本人の回想であっても記憶違いがあるのだから、直接本人から聞いたにしても何処まで信用出来るのか分かったものではない、と思うのです。いえ、回想でなくリアルタイムの当事者であっても、先月の頭に述べた赤マントに関する一件のように、それぞれの知り得る情報に違いがありますから、理解している内容も違いが出て来ます。そうなると公平な見方に達することなど絶望的に思えて来ますが、どうしても偏りを避けられないと含み置いた上で、出来得る限り客観的に眺めようと努力するより他にありません。ですから、このような証言を使うには必ず傍証が必要になります。幸い、三田村氏は明治37年(1904)7月から昭和24年(1949)12月までの日記を残しています*1。しかしながら、4月11日付(02)に述べたように『三田村鳶魚日記』は『三田村鳶魚全集』索引に採られていないので簡単に使う訳に行きません。4月13日付(03)に述べたように、総索引を作りながら頭から読んで行った方が誤りが少なくて済むのですけれども、そんな余裕はありませんから見当を付けて決まった期間を集中的に見て行くしかなさそうです。
 しかし、最初関係が分からなかった人物が途中で姉妹と分かったり、親戚と分かったりしますので、そこはまた気付かずに過ごしてしまったところを遡って見ないといけません。そうすると結局、頭から総索引を拵えた方が早いのではないか、と思えて来るのです。索引があれば、初めから分かった上で組み立てて行くことが出来ます。ですから、もうそういうものを拵えた人がいたら、時節柄出版は難しいでしょうから、ネット上に公開して欲しいのです。『三田村鳶魚全集』編集室では『日記』の索引を全く作らなかったでしょうか。朝倉氏は翻字に当たって人名について整理したメモなど拵えなかったのでしょうか。――まあ虫の良い話ではありますし、作成者の労に報いる妙案もないのですけれども。
 また前置きが長くなりました。――私が小川氏の証言に疑問を持ったのは、特に何の見当も持たずに『三田村鳶魚日記』をざっと眺めていたときに気付いた、大正十一年八月十三日(日)条の大半を占める、以下の記述です。第廿五巻418頁下段19行め~419頁上段2行め、

夜皆川豊治氏来り、みさをと縁約のよし話あり、それは/当方にて同意せざる事なれば、関せずに御勝手になさる【418】べしと答ふ。将来同人等出入は断ること勿論、縁戚とし/ての交誼も謝絶するよしを告ぐ。○‥‥

 そしてその通り、それまでしばしば『三田村鳶魚日記』に見えていた操(みさを)と皆川(豊治)氏が、ぱったりと姿を見せなくなるのです。
 皆川氏については4月17日付(06)に言及した「国立公文書館/アジア歴史資料センター」のアジ歴グロッサリー「インターネット特別展「公文書に見る「外地」と「内地」―旧植民地・占領地をめぐる「人的還流―」の「植民地官僚経歴図/皆川豊治」によって分かる通り、大正9年(1920)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業したエリートですから、結婚相手として不足があるとは思えません。そうすると三田村氏の怒りは、小川氏の云う「もともと自分の養子にするつもりでいた」義妹の操を皆川氏が、それこそ拐かすような振舞に出たことに対する怒りだったように思われます。そうするとこれが、4月19日付(08)に引いた、結局最後まで上手く行かなかった養子選びの躓き始めであったことになる訳です。
 しかしながら皆川豊治・操夫妻とはその後和解し、戦後「非常に頼りにして」いたのを小川氏は見て、当初は拗れた関係だったことを知らずに戦後の様子から遡って考えている訳です。「満州国の高級官吏だった皆川さんという人のところへお嫁にいっ」たとあるのも、大正11年(1922)から満洲国建国まで10年ありますから誤りなのですが、小川氏にとって皆川氏がどのように見えていたか、理解していたかを察する材料になる言い方だと思われるので、字句から解釈して行こうとする私なぞにとっては、非常に面白く興味深いところとなるのです。(以下続稿)

*1:うち、明治42年(1909)と昭和21年(1946)昭和22年(1947)を欠く。詳細には柴田光彦「演劇博物館所蔵の三田村鳶魚日記について」を取り上げる際に及ぶつもり。