瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(08)

・「三田村鳶魚全集月報」の座談会(1)
 4月17日付(06)の続き。
 八重夫人の妹・操について、江戸城のトイレ、将軍のおまる 小川恭一翁柳営談315~377頁「第八回 この本はおまえさんに譲ってやろう」の3節め、320~326頁1行め「奇特の学生なり」の、養子候補として奥野信太郎(1899.11.11~1968.1.15)や松本亀松(1901.10.27~1985.4.9)の名が挙がりながら上手く行かなかったことを述べた箇所にも触れてある。321頁7~14行め、

 一時は三田村翁は養子縁組の候補者として奥野先生を考えていたらしい。ところが/吉田さんが「奥野さんはダメだよ。もう決まった人がいる……。松本さんしかいない/よ」といったそうです。もっとも、その話もダメになったのですけれど。それでも養/子選びはつづき、上野悦子先生によれば「眼は故郷八王子に向かった」といいます。/小俣仁三氏や平音次郎氏の子息の名前も出たようですが、鳶魚翁の強烈な個性は敬遠/されました。私の出入りするころには、ご夫婦とも養子候補として八重夫人の妹の操/さんの次男をお考えのように変化されておりました。鳶魚翁夫妻は操さんの嫁入りに/ついてずいぶんお骨折りになったとのことでした。


 吉田さんは奥野信太郎松本亀松が入り浸り、三田村氏が懇意にしていた古書店で、この直前(321頁1~6行め)に簡単に触れてあるが、4月11日付(02)に触れた『三田村鳶魚全集』編集の朝倉治彦が司会を務めていた「三田村鳶魚全集月報」連載の座談会にて、松本亀松が語っているところを抜いて置こう。
 なお、この連載について、三田村氏を知った人が思い出を語ったものばかりのように書いてしまったが実はそうではない。そのことはその後、座談会のみを纏めた次の本により確認出来た。
朝倉治彦 編『鳶魚江戸学 座談集 一九九八年一一月二五日初版印刷・一九九八年一二月一〇日初版発行・定価2400円・中央公論社・436頁・四六判上製本

鳶魚江戸学 座談集

鳶魚江戸学 座談集

 425~429頁「編者あとがき」から冒頭部、座談会及びこの本について説明した箇所を抜いて置こう。425頁2行め~426頁11行め、

三田村鳶魚全集』(二十七巻、別巻を入れて二十八冊)は昭和五十年四月から刊行を開始して、/五十八年十月に別巻(索引、著作目録、総目次)を読者に送った、足かけ十年の仕事であったが、/日記(三巻)別巻を除いた本体は、五十二年三月に出版し終ったので、月刊二年間で、順調に進/行したのである。
 最終配本の別巻は、五十三年四月刊行予定のところを、索引に非常に手間どって、五十八年にな/ってしまったのであった。
 月報(十二頁、二段組、写真入り)は冊数と同じ全二十八号である。この月報の内容は、全て座/談会でうめた(二十八号を除く)のであるが、司会は私にと、はじめて指名された時は、これは、/えらいことになったと、ショックを受けたことを記憶している。座談会は戦後しばらくしてから、/今でも続いている方式であるが、一時期大変はやったもので、珍しい感はないが、月報に、これ/をあてたのは、異例であったと思う。社は、そこを、ねらったのであろう。
 しかし、私には、その経験なく、あらかじめ、御登場の先生方の著書を読んでおき、また流れ/を考えるなどの緊張を二年間、抱いたのであった。これは、私には、よい経験で、その後の座談【425】会は、お蔭でリラックスして進めることが、できるようになった。
 一回にお二人の先生をお呼びしたので、全五十四人であった。名前を聞くだけであった方、こ/れまで、多少お目にかかっている方、私と考究して頂いている方など入り交ってはいるが、神経/を使うのは、毎回同じで、終ったあと、安堵よりも不出来の慙愧に悩まされたのであった。
 当時の先生方も、多く鬼籍に入られ、感慨深いものを、心に感じる次第であるが、月報を読み/返して、改めて当時を思い起こさせられた。
 本書を編集するに当り、鳶魚の執意情熱を念頭に置いて、配列した。
 今、読み返してみるに、諸先生方が、私の下手な質問を超えた、鳶魚の価値を、熱心に語って/うまなかったお蔭であると、感謝以外何ものもない。
 二十一篇の題名は新たに付けて、平がなの多い箇所は、読みやすく読点を多く加え、若干振が/なを施した。


 当時、426頁16行め「文庫刊行中」すなわち中公文庫から鳶魚江戸文庫シリーズが刊行中であったので、「三田村鳶魚全集月報」座談会の刊行も実現を見たのであった。

 「日記(三巻)」の刊行も遅れているように書いているが、4月11日付(02)に確認したように日記までは月刊で順調に進んでいる。或いは24冊が24ヶ月=「月刊二年間」と云うことであろうか。いづれにせよ、別巻のみが大幅に遅れたのである。
 そして気になるのは、54人が2人ずつ登場する座談会が27回あったはずなのだが、21篇しか収録されていないことである。すなわち、他に6回あったはずなのだが、430~431頁「出典一覧 本書収載の座談は中央公論社三田村鳶魚全集』の月報に収載」にも省かれた分については全く触れるところがない。私の手許には今『三田村鳶魚全集』の第廿五巻・第廿六巻・第廿七巻と別巻の4冊しかないので、細かい対応関係は追って確認することにする。
 「月報」に「写真入り」と断っているのは、座敷で歓談する座談会参加者(及び速記者らしい若い女性)の写真を掲載していたのを、この本には再録していないからであろう。その代わり、月報には参加者についての説明が殆どなかったのを*1、432~436頁「座談会参加者略歴(収載順)」があって、氏名(読み)に生歿年や専攻・肩書・主著など、1行22字で3行(2行2人、4行1人、5行1人)とごく簡単な略歴を示している。
 それから、目立つ異同としては「月報」では最後に括弧に年月日を示す。座談会の実施日であろう。これが本では省かれている。大した意味はないかも知れないが、私などからすると、やはり省かないで欲しかったと思うのである。
 ちなみに「三田村鳶魚全集月報」第28号(昭和58年10月)は4頁で、1~4頁下段17行め、朝倉治彦柴田宵曲の日記と鳶魚」で、残りが4月11日付(02)に引いた「編集室から」である。
 さて、朝倉氏も「鬼籍に入られ」て6年、生前私は一度、勘違い(?)で手紙をもらったことがある。丁重に辞退申し上げて、それっきりであった。(以下続稿)

*1:当時の『三田村鳶魚全集』読者なら大体知っていようと思ったのであろうか。初めに司会の朝倉氏が紹介しているし、発言を辿ればどんな人なのか大体分かるけれども。