・昭和7年の満韓旅行(4)
さて、三田村氏が「将来同人等出入は断ること勿論、縁戚としての交誼も謝絶する」としていた皆川家との和解ですが、その切っ掛けとなる出来事があったのが、4月28日付(13)まで3回にわたって取り上げた昭和7年(1932)6~7月の満韓旅行だったのです。
これは、何となく経歴を久しく(?)調査している河本正義の名が、昭和7年の満韓旅行の帰途に立ち寄った神戸での「神戸陳書会」の例会についての『三田村鳶魚日記』の記事に見えることに気付いて、別にそこだけ見て済ませれば良いのですが、性格的に周辺事項も見ないではいられないので旅程についても確認して見たことで気付いたのです。
この旅行、日記を見る限りでは目的がはっきりしません。『三田村鳶魚全集』別巻の「三田村鳶魚著作目録」を見ても昭和七年六月条には4月24日付(11)に引いた程度の記述しかありません。
そこで遡ってみると「三田村鳶魚著作目録」の1頁め、「明治二十七年 二十五歳」条に、491頁上段9~13行め(10行め以下は2字下げ)、
一月十五日、中外商業新報の記者として従軍、宇品出港、/十九日大連着、戦場へ赴きしも病を得て、四月二十/三日大連発、帰国す。
『日本』の井上藁村、寛永寺の大照円朗を知る。戦/後、大照師に従い、得度受戒す。
とあります。明治文學全集90『明治歴史文學集(二)』所収、杉崎俊夫編「年譜/三田村玄龍」には「▽明治二十八年(一八九五) 二十六歳」条に、406頁上段23~30行め、
日清戰爭中は、『中外商業新聞』の記者として從軍。一月、金州の第一師團司令/部の宿舍に入る。この從軍記者時代に、『日本』の井上藁村、寛永寺の從軍布教/僧大照圓朗とあい知る。戦後、大照圓朗師(上野東叡山内、吉祥院住職、のち輪/王寺門跡となる)に從って得度受戒、天台宗に僧籍を得る。以後天台教學を研鑽。/先師島田蕃根翁の遺旨を奉じて、神、儒、佛の三教學の研鑽につとめる。
玄龍の記者としての閲歴も不詳であるが、星亨の『自由燈』に入ったのが文筆生/活のスタートであるという。その後『中外商業新聞』『電報通信』等に關係し、/また、甲府、徳島、名古屋、水戸で新聞記者をしたこともあるという。
とあります。
杉崎氏「年譜」は、「中外商業新報」の名称を誤っています。「三田村鳶魚著作目録」は一々断らなくても分かっているだろう、と云うつもりなのか、日清戦争の呼称を示さないのですが、それ以上に変なのは日清戦争は明治27年(1894)7月25日開戦なのに、大陸に渡っていたのがその前の1月から4月までになっていることです。だからこれは明治28年(1895)の誤りとして、病を得て中途で帰国したと云った風に読めますが、3月20日に講和会議が下関で始まって4月17日に調印していますから、4月23日に大連を発ったのは現地で戦闘・戦跡を見届けてからの帰国と云うことになりそうです。久しく入院して殆ど動いていなかったのかも知れませんが。
さて、昭和7年(1932)の満韓旅行では、まづ大連に上陸し、金州と旅順に足を延ばしていますが、これは日清戦争従軍記者時代の思い出の地と云うことになるのでしょう。そして昭和7年(1932)と云う時期ですが、これは3月1日の満洲国建国を承けてのことであることは明白でしょう。そして日清戦争のときには遼東半島にとどまっていたのが、今回は従軍しなかった日露戦争の戦場となった満洲の内陸部、満洲国の中心部まで、足を延ばしたのでしょう。(以下続稿)