神戸陳書会については、既に古書マニアによる言及が幾つかあるらしいので、それらの人々が注目しないであろう河本氏について触れるに止める。
・ちくま文庫『古本でお散歩』(二〇〇一年七月十日第一刷発行・定価780円・筑摩書房・366頁)
- 作者:岡崎 武志
- メディア: 文庫
但し「神戸にもあった知のネットワーク」は、283頁4行め「昨年、神保町の古書即売会で」前川清二『今昔談』(昭和5年・ぐろりあ そさえて)を入手したことを切っ掛けにしているのだが、初出誌「SUMUS」の発行年月が表示されていないので、この「昨年」がいつなのか分からない。
ただ、284頁8~12行め、
そこへ、神戸の間島一雄書店さんから合同古書目録「陳書」(一九九八年八月)が送られて/きた。二代目店主の間島保男さんとは、今年初めに某雑誌の古本屋取材でご縁ができた。取/材の中で、昭和初年ごろから戦前にかけて、神戸の古本好きによる「陳書会」という集まり/があり、雑誌も出ていたと聞いていたから、送られてきた目録名「陳書」が、その会にちな/んだものであることはすぐわかった。
とあるから「今年」は平成11年(1999)らしく思われる。しかしこれも、平成12年(2000)になってから知り合って、前年に出していた目録を送った可能性だってあるのである。ちなみにネットオークションに挙がっている画像によると題は「古書販売目録/陳書」発行は「神戸陳書会」で「頒価 500円(本体)」である。――誌名と団体名がを*1同じにしたのは、混乱の因になりそうだから変えて欲しかった、と私なぞはどうしても思ってしまうのだけれども。
それはともかく、この古書販売目録「陳書」に、間島保夫「[神戸陳書会]と『陳書』のことども」が掲載されていて、岡崎氏はこの間島氏稿と直接教わったことを基に、岡崎氏自身の調査も加えて神戸陳書会及び前川清二(1872~1943)について紹介している。――河本正義については、一昨日・昨日紹介したような活躍ぶり(?)では、当然のことながら一言も触れるところがない。
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・昭和7年の満韓旅行(3)
4月25日付(12)の続きで、残りの旅程も見て置こう。
昭和7年(1932)7月21日(木)は、多田覚の案内で京都府綴喜郡八幡町(現・八幡市)石清水八幡宮とその神宮寺だった神應寺に参詣し、神應寺の淀屋辰五郎・長澤蘆雪の墓を訪ねている。7月22日(金)も多田氏と大阪朝日新聞社を訪ね内海景晋に逢い、その紹介で青蓮寺に行ったと云うのである。――『三田村鳶魚全集』別巻の「事項索引」を見るに、385頁下段4行め~390頁上段「せ」の386頁中段21行めに、
青蓮寺 (21)一七四
とある(丸数字に漢数字は半角だが再現出来なかった)。563~579頁「三田村鳶魚全集総目次」を見るに、576頁上段15行め~577頁上段10行め「第廿一巻」の中段11行め、
竹田八代 一六四
とある。今、手元に『三田村鳶魚全集』第廿一巻はないが、これによってこの青蓮寺が竹田出雲墓所がある生玉の青蓮寺であることが分かる。この「竹田八代」はやはり『三田村鳶魚全集』別巻の「三田村鳶魚著作目録」を見るに、昭和六年四月条に「竹田八代 一 (演芸月刊 二三)」、同年六月条に「竹田八代 二 (演芸月刊 二五)」とあるから、執筆のために青連寺を訪ねたのではなく、1年前に発表した論考の確認に赴いたようだ。なお、石割松太郎(1881.1.24~1936.6.29)が編集発行していた「演藝月刊」について、国立国会図書館サーチ及び国立国会図書館デジタルコレクションにて検索するに、前者は第22輯で後者は第24輯、第25輯は存在しない。『三田村鳶魚日記』昭和六年三月十三日(金)条に「執筆。/竹田八代(一)、二十枚。」十四日(土)条に「○石割氏へ寄稿。」、五月十日(日)条に「竹田八代(二)、十三枚。」とある。そして五月二十七日(水)条に「○石割氏は、折簡して来月一日発行を以て、演劇月刊を廃休するよしをいふ。」とある(誌名ママ)。
夜、忍頂寺務の案内で宮武省三を訪ねている。7月23日(土)は休養のつもりで外出せず、借りていた本を読んでいたが、暑気に辟易して急に帰京を思い立ち、忍頂寺氏・多田氏に見送られて神戸駅を出発。電報で知らせていたのであろう、7月24日(日)午前10時、八重夫人が出迎える東京駅に着いている。帰宅後1日、不在中の来書の返事と帰宅を知らせる手紙を書くのに費やされている。
内海氏や宮武氏そして多田氏については詳しく調べる余裕がなかった。今後何か分かったら追加して行くこととしたい。(以下続稿)
*1:【2020年7月19日追記】見せ消ちにして訂正。