瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(11)

 昨日の続きで、当初「河本正義『覗き眼鏡の口上歌』(5)」と題して書き始めたのだが、『三田村鳶魚日記』のことで長くなってしまったので題を改めた。その使い方が従来の記事と異なり、引用が少なくなっているのは、日記をメインにするつもりではなかったためである。

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 世代的には2015年5月30日付「河本正義『覗き眼鏡の口上歌』(2)」に見た関西学院(中学部)卒業で神戸新聞の河本正義と同じくらいである。明治40年(1907)生の見当で、55歳定年の当時として昭和38年(1963)3月、満55歳の年度末に退職しているはずである。
 同一人物だとすると、大体――戦前、高等女学校教員。戦中、新聞社勤務、北支特派員、社史編纂委員。戦後、新制高等学校教員。と云う見当になる。
 或いは、同じ時期の神戸に、ほぼ同じ年輩の河本正義が2人いたのかも知れない。
 これを解決するには、まづ河本氏が寄稿している「兵庫県民俗資料」「近畿民俗」「上方」「旅と伝説」等を精査する必要があろう。「近畿民俗」31・32合併号の諸篇も細かく読んで行けば何処かに見えていたかも知れない。この号への寄稿を再録した『柳田国男研究資料集成』第Ⅰ期は、上笙一郎が『覗き眼鏡の口上歌』を復刊する9年前に出ていた訳だから、上氏が当時これに気付いておればと思われてならない。しかし Windows 95 以前の話で、検索すると云う訳にも行かなかったのだ。戦前の「近畿民俗」だけではなく、戦後復刊した「近畿民俗」にも目を通しておれば……。尤も、私にも今その余裕がないので、差当りこの事実のみを提示するにとどめざるを得ないのだけれども。
 ここで急に河本氏のことを思い出したのは、前回触れたように『三田村鳶魚全集』を借りに行った図書館で『柳田国男研究資料集成』を見掛け、以前から気になっていた河本氏の「柳田先生と北条」を読んだからなのだが、同じときに借りた『三田村鳶魚日記』にも河本氏が登場していることに気付いた。尤も、大勢のうちの1人と云う扱いなのだけれども。
昭和7年の満韓旅行(1)*1
 三田村氏は、八王子の平音次郎の次男・均二を伴って昭和7年6月6日(月)に神戸行の特急「燕」で東京駅を発ち、神戸からは船で10日(金)に大連に上陸している。13日に(月)は金州、16日(木)と17日(金)は旅順に泊まっている。19日(日)に奉天に移動、22日(水)の夜行列車で長春に向かい23日(木)から1週間滞在、30日(木)に夜行列車で出発して7月2日(土)に京城着、半月滞在して17日(日)に夜行列車で出発、18日(月)に連絡船で海を渡り、19日(火)から神戸に滞在、23日(土)に夜行列車で神戸を発ち、24日(日)午前10時に東京駅着、八重夫人の出迎えを受けている。
 この旅行については『三田村鳶魚全集』別巻の「三田村鳶魚著作目録」を参照するに、昭和七年六月条に、537頁上段20行め~下段2行めに、

六日、出発、大連・旅順・奉天長春京城を廻る。【上】七月十六日、「江戸ッ子の生活」を放送す。七月二/十四日帰宅。

と非常に簡単で、往復で神戸に立ち寄っていることに注意していないが、往路、6月6日(月)に神戸の三宮駅で多田覚・忍頂寺務に出迎えられ、会食中に川島右次(禾舟。1879~1952)、横田照二、菅稲吉(竹浦。1880.9.14生)が到来している。そして旅亭老松に1泊して翌7日(火)、忍頂寺氏・多田氏・横田氏・菅氏に見送られて大阪商船の大連航路に就航していた亜米利加丸で大陸へ出発したのである。
 そして、7月19日(火)に寝台車で三宮駅に着き、やはり忍頂寺氏・多田氏に迎えられている。この辺りは4月18日付(08)に挙げた内田宗一作成「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録」及び青田寿美監修「忍頂寺務年譜データベース」を参照しつつ、纏めてみよう。内田氏は「1034|三田村鳶魚(玄龍)」の、帰国を予告する忍頂寺務宛昭和7年7月15日付葉書についての「備考」欄に「昭和7年7月19日、満州より神戸へ帰港。」としている。確かに往路は神戸から海路であったが、七月十八日(月)条に、352頁下段18~19行め、

連絡船より又寝台車に移る、暑熱は昨夜の如し、長州路/に入り南村先生の事を思ふ、月は更に佳。

とある。――寝台車の暑熱や月について「又」とか「更に」と云っているのは「昨夜」のことを指している。南村先生は仏教学者の島田蕃根(1827.十二.二十八~1907.9.2)で周防徳山の人。
 それはともかく、寝台車で長州路を移動しているのであり、復路は京城から釜山まで夜行の寝台車、関釜連絡船で下関に渡って、また夜行の寝台車で山陽本線を東に移動したのである。だから七月十九日(火)条の冒頭が、神戸港に着くではなく353頁上段1行め「三の宮着、忍頂寺、多田二氏に迎へられ多田氏宅に入る。/○‥‥」となっているのである。(以下続稿)

*1:【4月26日追記】この見出しを追加。