・皆川家との関係(3)
昨日の続き。
さて、昭和7年(1932)の満韓旅行で三田村氏は皆川氏に10年振りに面会することになるのですが、その事情を確認して置きましょう。
三田村氏の旅程については4月24日付(11)に見た通りですが、満洲で会っている人について、全く注記していませんでした。そこで人名についてざっと眺めて置こうと思ったのですが、これを始めるといよいよ収拾がつかなくなると思って、差当り『三田村鳶魚日記』に皆川氏が再登場する箇所だけを抜いて、そこに同席している人名だけ簡単に確認して置くこととします。
一応、見当のみを述べて置くと、恐らく一九会を通して知り合った東京帝国大学卒業生たちの人脈、その中には満洲国建国に関与したような人もいて、その縁で三田村氏はかなり高位の人物とも面会しているのです。或いは、笠木良明(1894.7.22~1955.9.23)辺りの招きで渡満したのかも知れません。この辺り、私は僅かな知識しか持ち合わせておらず、従来の三田村鳶魚研究でもこうした方面についての掘り下げがどのくらいなされているか、承知していませんが江戸学に比すれば微々たるものでしょう。
まづ6月10日(金)大連上陸時に埠頭に出迎えに来ていた土肥顓の自宅に泊まっています。この土肥氏は大正半ば頃の『三田村鳶魚日記』に皆川氏と連れ立って三田村氏を訪ねたことなどが度々見える、同じ人脈に連なる人物です。この他大連で注意されるのは、満洲文化協会で、東京高等商業学校(現・一橋大学)の語学教師だった李文権と度々会って交誼を結んでいることです。
さて、6月23日(木)に満州国首都の長春(新京)に着き、24日(金)から満洲国県参事会館に滞在します。そして六月二十六日(日)条の全文、349頁下段17~20行め、
栗山氏を訪ふ、此日より臨時司法部官舎に寄寓。○久々/にて皆川氏に逢ふ、栗山氏の世話を受け同舎にありなが/ら、差置き難ければ皆川の世話にもなるべきを、彼を避/けんこと、彼の面目のためにも妙ならず、忍んで接見す。【349】
とあって、4月17日付(06)以来再々言及している「国立公文書館/アジア歴史資料センター」のアジ歴グロッサリー「インターネット特別展「公文書に見る「外地」と「内地」―旧植民地・占領地をめぐる「人的還流―」では「満洲国国務院司法部法務司」
の初代法務司長として「栗山茂二(司法省) 1932年3~7月」の名が見えています。国立国会図書館サーチでは昭和5年(1930)刊『朝鮮民事訴訟法』(松山房)がヒットします(国立国会図書館デジタルコレクション「国立国会図書館/図書館送信限定」公開)ので、満洲国建国前は朝鮮にいたのでしょう*1。また神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫の昭和15年(1940)3月2日付「大阪朝日新聞」掲載の「興亜の新建設を見る➐ 大東港と東邊道篇(4)」(神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」第12巻019)これは「安東にて/福澤特派員」と報告地(安東省安東市)と記者名が添えてありますが、記事冒頭に、
通化省公署の一室、みるからに豪/快な国策型の快男子、通化省次長/栗山茂二氏は*2
『(1字下げ発言13行省略)』
と豪快に笑った、‥‥*3
とあって、昭和15年(1940)には通化省の次長であったことが分かります。しかしながらアジ歴グロッサリーの「植民地官僚経歴図」ではヒットしないので、皆川氏ほどその経歴を俄かに明らかにすることが出来ませんでした。
さて、昭和7年6月26日(日)に話を戻します。――皆川氏はこのとき単身赴任して、*4臨時司法部官舎に起居していたようです。皆川氏の経歴はアジ歴グロッサリーの「植民地官僚経歴図/皆川豊治」に見えますが、ここで、
【 参考資料 】
人事興信所編『満洲国名士録 康徳元年版』1934年、180-181頁。人事興信所編『第十四版 人事興信録 上巻』1943年、ミ68頁。帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』1943年、満洲282頁。
を確認して置くこととしましょう。これらの紳士録には家族も載っているからです。ちなみに『人事興信録』第十四版は「上巻」ではなく「下巻」が正しい。
『満洲国名士録 康徳元年版』には土肥氏や栗山氏も載っていそうですね。それもぼちぼち検出して見ることとしましょう。(以下続稿)