瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(20)

・皆川家との関係(6)
 紳士録を見る前、4月17日付(06)に触れた、三田村氏の母タキの死去に続く記事の中に、死去の翌日、大正七年十一月十日(日)条に、310頁上段4行め「‥/‥。○みさを今日より学校を休む。○‥‥。」とあり、十一月十八日(月)条、310頁下段1行めに「‥‥。○みさを学校へ往く。○‥‥。」とありました。三田村氏の義妹、八重夫人の妹「みさを」は、5月4日付(15)に引いたように大正11年(1922)に、三田村氏の意に反して皆川豊治と婚約しています。ですからこの「学校」は流石に小学校ではないでしょう。高等女学校だとして明治30年代後半の生れ、明治17年(1884)生の八重夫人よりも20歳くらい若い妹と云うことになろうと思っていました。
 ところが5月7日付(18)に引いた『満州国名士録』によって明治29年(1896)生と分かってみると、20歳過ぎの大正7年(1918)に高等女学校に通学しているとは変です。
 しかし『人事興信録』によって東洋大学と分かってみれば、女学校卒業から数年ブランクを置いて、大正5年(1916)に初めて女子の入学が許可されたところを捉えての大学入学だったことになるわけです。
 もちろん三田村氏が学費を出して、実の娘のように面倒を見て、恐らく小川氏の云うように「もともと自分の養子にするつもりで」自分の仕事を引き継ぐような男性を婿に取って、と云うつもりだったのかも知れません。
 「みさを」は三田村氏が八重夫人と結婚した大正2年(1913)から『三田村鳶魚日記』に登場するのですが、その頃の動向については別の記事に纏めましょう。差当り大学入学時期に絞って『三田村鳶魚日記』を検するに、大正6年(1917)4月頃には何の記事もありません。そこで大正7年(1918)を見るに、四月十日(水)条に、293頁下段1~2行め、「‥‥。○操ヲ帯同シテ東洋大学ニ往ク。○‥‥。」とあります。「みさを」の東洋大学入学は大正7年4月のようです。
 
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 さらに確認すべきことがありますが、それでは当初の予定から大幅に逸れてしまいますので、この辺りで『三田村鳶魚日記』の、5月6日付(17)の続きに戻りましょう、
 昭和七年六月二十九日(水)条、350頁上段17~18行め、

‥‥。○満洲中央銀行に李道衡を問ふ、青葉にて会食、李と栗山夫妻、皆川一同。


 この「李道衡」を検索するに「華人百科」の「李濤痕」項がヒットしました。1878年生で「天津人。本名李文權,又名李道衡,為京劇劇評家、戲劇報編輯」とあり、1919年までの経歴が紹介されていますがそれ以後については記載がなく、歿年も明らかではありません。(以下続稿)