瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(19)

・皆川家との関係(5)
 4月17日付(06)以来度々言及している「国立公文書館/アジア歴史資料センター」のアジ歴グロッサリー「インターネット特別展「公文書に見る「外地」と「内地」―旧植民地・占領地をめぐる「人的還流―」の「植民地官僚経歴図/皆川豊治」では、【参考資料】として昨日見た『滿洲國名士録』の他に挙がる「人事興信所編『第十四版 人事興信録 下巻*1』1943年、ミ68頁。」と「帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』1943年、満洲282頁。」ですが、これは終戦前最終の版を挙げているようで、これより以前の版にも見えています。そして以前の版を参照することで皆川氏の経歴はより細かく判明するのですが、そこを辿るとまた長くなりますので、差当りアジ歴グロッサリーの【参考資料】として挙がる2冊を見て置くこととします。
・第十四版『人事興信録』下(人事興信所)
 まづ、「人事興信録. 第14版 下」ですが、奥付には右に発行日が2段、上段「明治三十六年四月十八日 第一版發行/明治四十一年六月十八日 第二版發行/明治四十四年三月廿五日 第三版發行/大正四年一月十日 第四版發行/大正七年九月十五日 第五版發行/大正十年六月十五日 第六版發行/大正十四年八月五日 第七版發行/昭和三年七月十日 第八版發行」中段「昭和六年六月廿三日 第九版發行/昭和九年十月廿八日 第十版發行/昭和十二年三月十三日 第十一版發行/昭和十四年十月二十日 第十二版發行/昭和十六年十月一日 第十三版發行/昭和十八年八月三十一日 第十四版印刷/昭和十八年十月一日 第十四版發行」最後は下寄せで「(七、〇〇〇部)」とある。下段は囲みで「『第十四版人事興信録』/上下二巻 定價金七拾圓/〈特別行爲税/相 當 額〉金參圓八拾六錢/賣價 金七拾參圓八拾六錢」○の中に「停」。
 ミ之部(一〇七頁)のミ六八頁(690コマ)4段組の4段め31~43行め、

皆川豐治〈滿洲國奉天省次長/山形在籍〉
 妻  みさを 明二九、八生、福井、高松龍吉妹、東洋大
 男  廣 居 大一五、九生、奉天一中在
 女  千 里 大一二、九生、新京敷島高女卒
山形縣茂右衛門の四男にして明治二十八年四月出生す大正/九年東大獨法科を卒業し滿鐵勤務東京仙臺若松盛岡秋田仙/臺各檢事滿洲國最高檢察廳檢察官國務院總務廳秘書處長人/事處長恩賞處長錦州省公署總務廳長文教部總務司長民生部/教育司長滿洲工鑛技術員養成處長協和會中央本部總務部長/同副本部長を經て昭和十六年現職に就く[家]尚ほ二女智子/(昭四、三生)二男莞爾(昭六、一一生)兄建藏(明二五、七生、戸主)同/妻みつ(明二七、一〇生)弟富之丞(明三五、九生)同妻とし(同四五、一/生)あり(奉天市城内奉天省公署内)


 [家]は角丸の四角に小さく「家」で1字分、括弧内の漢数字は半角。
・第十四版『大衆人事録〈外地/満・支/海外〉篇(帝国秘密探偵社)
 次に「大衆人事録. 第14版 外地・満支・海外篇」ですが、奥付の右上に発行日が以下のように列挙されています。「大正十四年十二月五日 第一版發行/昭和二年十月廿日 第二版發行/昭和五年七月廿二日 第三版發行/昭和七年六月十五日 第五版發行/昭和九年十一月十五日 第十版發行/昭和十年十二月十五日 第十一版發行/昭和十二年十一月十七日 第十二版發行/昭和十五年九月五日 第十三版發行/昭和十八年十一月十八日 第十四版印刷/昭和十八年十一月廿二日 第十四版發行」第十四版に関する2行の下に「〔四・五〇〇部〕」とあります。右下に「〈定價○金貮拾五圓/〈特別行爲/税相當額〉金九拾參錢〉合計金貮拾五圓九拾參錢」○の中に「停」。
 「關東州」五〇頁に続いて「滿 洲」三二五頁、その二八二頁(703コマ)に、5段組の3段め、16~29行め「皆川富之丞」に続いて30~44行め「皆 川 豐 治」氏名は2行取りで最初の2行の上部。

從五 勳三位 奉天/省次長 奉天市紅葉/町三公館 電三―四九九八 [閲歴]山形縣/茂右衞門四男明治廿八年四月廿五日同縣/西田川郡に生る大正九年東大獨法科卒業/滿鐵東亞經濟調査局仙臺裁判所檢事歴勤/後來滿し最高檢察廳檢察官總務廳秘書處/長同人事處長兼恩賞處長錦州省公署總務/廳長國務院理事官文教部總務司長民生部/教育司長兼大同學院教授協和會中央本部/總務部長同副本部長歴任康徳八年八月現/職に就く 宗教佛教 趣味運動 [家庭]妻/みさを( 明二九)福井縣高松龍吉妹東京高女卒/長男廣居(大一五) 長女千里(大一二) 二女智子/(昭四) 二男莞爾(昭六)


 [閲歴]と[家庭]はそれぞれ2字分の記号、括弧内の漢数字は半角。
 ここで注意されるのは妻「みさを」の学歴で『人事興信録』は「東洋大卒」、『大衆人事録』は「東京高女卒」としています。「東京高女」は私立東京高等女学校(現・東京女子学園中学校・高等学校)で「東洋大」は東洋大学ですが、Wikipedia東洋大学」項の「年表」に、

1916年 - 女子の入学許可(男子の専門学校として日本初)

とあります。このとき入学したのは「東洋大学」HP「東洋大学の歴史」の「東洋大学史エピソード集」にある「初の女子学生入学(大正5(1916)年)」、或いは「東洋大学男女共学100周年記念特設Webサイト」を参照するに、「最初の女子学生 栗山津禰さん」1人だけだったようですから「みさを」の東洋大学入学は翌年以降と云うことになります。(以下続稿)

*1:元のサイトに上巻とあるのは誤り。