瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(06)

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めたのですが、赤マントに話が及ぶ前が随分長くなってしまいました。これは別の記事にするべきだと思い直して、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称します。すなわち「赤いマント(181)」を「『三田村鳶魚日記』(06)」に改めます。本文には手を入れておりません。

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 昨日、今回の最後まで書いてしまうつもりだったのですが、――と昨日と同じ書き出しになってしまいました。しかし今回も全く赤マントの影も形もありません。記事の題を『三田村鳶魚日記』とするべきでしたが、飽く迄も「赤マント」から派生しての調査ですので、しばらくこのまま続けることにします。
・『三田村鳶魚日記』(6)文園町の家③
 大正九年十一月九日(火)条には、363頁下段2~5行め、

‥‥。○先妣第三回忌といふ。何の心構へ/もなし、御生前に家居新しくつくりてなど望まれしが、/今僅に整はんとするなり、それとても在しまさぬ今は何/かせん。○‥‥

とあって、大正七年十一月九日(土)条を見るに、309頁下段17行め、「午後九時三十分阿萱遂ニ逝去。享年七十一。○‥‥」とあって、以後、母・三田村タキ(1848~1918.11.9)の葬儀や法要、知友の弔問の記事が続きます。杉崎俊夫編「年譜」では「大正七年(一九一八) 四十九歳」条を見るに、407頁下段13~14行め「‥‥。十一月九日、母タキ死亡。行年七十一/歳。法名坤道院妙心日貞大姉。‥‥」、「三田村鳶魚著作目録」の大正七年十一月条には「九日、母タキ逝去、七十一歳。十一日、柏木常円寺/にて葬儀を営む。」とあります。
 そして十二月十日(金)条に、龍興寺から新居に移ったことが見えます。これは全文(365頁下段16~18行め)を抜いて置きましょう。

寺の方にも都合ありと思はるるゆゑ、先づは新屋に移る。/○此夜は鉄樹居士、今給藜平とまる。○操はなほ寺の方/へ。○欠課。


 今給藜平についてはまだ調べていません*1龍興寺にとどまった「操」は妻・八重の妹で当時同居していました。
・『江戸城のトイレ、将軍のおまる 小川恭一翁柳営談二〇〇七年十月十五日第一刷発行・定価1300円・講談社・445頁・新書判並製本

江戸城のトイレ、将軍のおまる〈小川恭一翁柳営談〉

江戸城のトイレ、将軍のおまる〈小川恭一翁柳営談〉

 この本については、詳細を別に記事にするつもりでした。今から丁度10年前に読んだのですが、今回また借りて来て読み返しています。315~377頁「第八回 この本はおまえさんに譲ってやろう」は晩年の弟子・小川恭一(1925~2007.9.25)の三田村氏についての回顧談で、先取りになる内容もありますが、関係する箇所を抜いて置きましょう。「不本意な日々」の節の最後、374頁6~13行め、

 さらに翁にとっての不幸は、奥さんの妹の嫁ぎ先、皆川家との関係でした。もとも/と自分の養子にするつもりでいた奥さんの妹さんが、満州国の高級官吏だった皆川さ/んという人のところへお嫁にいって子どもを二人もうけました。皆川夫妻は戦後引き/揚げてきて、三田村夫妻としては非常に頼りにしておられました。
 ところが昭和二十三年五月に、皆川さんが急逝します。腸チフスだったと思いま/す。豊岡のあと翁は世田谷で皆川家と一緒に住むわけですが、皆川さんが亡くなった/ということは、翁にとっては苦労の歯車が止まらなくなったようなもので気の毒なこ/とでした。


 皆川豊治(1895.4~1948.5.11)については、「国立公文書館/アジア歴史資料センター」のアジ歴グロッサリー「インターネット特別展「公文書に見る「外地」と「内地」―旧植民地・占領地をめぐる「人的還流―」の「植民地官僚経歴図/皆川豊治」によって昭和16年(1941)までの経歴が分かります。(以下続稿)

*1:5月24日追記5月21日付(26)にその後、分かったことを記述しました。なお「今給黎」と誤変換していたのを訂正。