瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(177)

・延吉実『司馬遼太郎とその時代』(2)
 本書は6月1日付(176)に示したように、全2巻であるが、1冊めの『戦中篇』311~313頁「おわりに」の末尾近く、312頁17行め~313頁1行めに、

司馬遼太郎とその時代』は、戦前・戦中・戦後の三部構成(全三巻)で構想していた。すべて書き/下してからと思っていたが、構想は多少変化し、結果的には「戦中篇」から逐次刊行することになっ【312】た。

とあって、313頁3行め「二〇〇一年十二月」の時点では(全三巻)の予定であった。
 しかし『戦後篇』305~306頁「おわりに」の末尾近く、306頁11~12行め、

司馬遼太郎とその時代』は、当初「戦前篇」を予定していたが、構想は叙述スタイルの都合で多少/変化し、戦前期の記述内容は、「戦中篇」「戦後篇」それぞれに分散したかたちで収まっている。

とあって、14行め「二〇〇三年八月」には全2巻で完成しているのである。
 私は前回書いたように、司馬遼太郎(1923.8.7~1996.2.12)の作品はあまり読んでおらず、伯父が愛読していて、軍隊の宿舎の便所の数まで調べて書いているのを称賛するのを聞いて、それは凄いことなのか、と却って尻込みしてしまい、司馬氏は私の修士課程まで存生していて、雑誌の連載、例えば「週刊朝日」の「街道をゆく」を他の連載を見るついでに眺めたことがあり、また父が「文藝春秋」を買っていたので「この国のかたち」を見ることもあったのだが、毎週・毎月心待ちにして、と云ったことにはならなかった。
 だから『戦中篇』から順に読むようなこともなく『戦後篇』から読んで、ようやく赤マントの記述がある辺りまで来たのだが、――確かに戦前の記述が多い。それは、司馬遼太郎(本名・福田定一)の、生い立ちや作家デビューするまでの経歴を述べたエッセイやインタビューに、矛盾や明らかな虚偽のあることを指摘し、それらが書かれた戦後から戦前に遡って、当時の関係者や地域資料に当たって検証しているからなのである。
 この、複数の証言の矛盾を取っ掛かりにして検証して行く辺りは、非常に興味深く読んでいるのだけれども、しかしそれにしても、私は司馬氏に対する思入れがないことに改めて気付かされたのである。高校・大学と、周囲に司馬氏の作品の愛読者がいたけれども、私は司馬氏のことは彼等に任せて置けば良い、くらいの気分で、自分でも読んで見ようとは思わなかったのである。
 だから司馬氏本人とその作品について、当ブログで取り上げることは今後も多分ありません。赤マントも、司馬氏が赤マントの騒動を回想した文章を書き遺しているとか、インタビューで語っていたとか云うことではなくて、司馬氏の卒業した小学校にも赤マントの話があった、と云うことなので、肝腎の司馬氏やその友人たちが赤マントの流言に遭遇し、どのような対応をしたのか、司馬氏も私立上宮中学校4年生のときにこの流言を耳にしたろうと思われるのだが、そう云う話にはなっていないのである。(以下続稿)