瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(178)

・延吉実『司馬遼太郎とその時代』(3)
 赤マントの記述は、『戦後篇』140~196頁「第4章 難波塩草」の、169頁13行め~183頁7行め「3 難波塩草尋常小学校 Ⅰ」の節、司馬氏が入学・卒業した小学校についての司馬遼太郎(本名・福田定一)のエッセイの短い記述に対する、延吉氏の長い注釈に見えている。171頁5行めから抜いて見よう。引用は2字下げで前後を1行分ずつ空けている。

この一帯に小学校が八つばかりあって、私が就学したのはそのうちの難波第五塩草尋常小学校と/いう、レンガ敷きのそれこそ猫のひたいのようにちっぽけな運動場をもつ学校だった。
                  (「年少茫然の頃」『司馬遼太郎の世紀』所収、一〇六ページ)

 難波小学校創立百十周年記念事業委員会『難波 難波小学校百十年の栄光』(大阪市立難波元町小学校、一九八七年)に、右引用文中の八つの小学校の沿革が記録されている(六五―八ページ)。難波の/小学校は、第一から第九まで九校あった。そのうちの難波第八尋常小学校が、一九二一年(大正十年)/に難波高等小学校と改称され、定一の小学生時代には「第八」が抜けて、尋常小学校は八校になって/いたようだ。
 同記念誌によれば、定一の「第五」、難波第五尋常小学校の創立は、一九〇七年(明治四十年)五月/一日。六年生までそろった一〇年(明治四十三年)の三月の時点で、すでに二十学級・生徒数千二百/九十一人であったという。校地坪数は千三百十二坪、校舎坪数は六百三十四坪である。以上は、一三年/(大正二年)発行の「大阪の公人」(大阪府中之島図書館蔵)にもとづくものだ。一三年で児童数が千【171】七百八人だというから、一〇年からかぞえて、わずか三年ばかりで児童数は四百余人増加したことに/なるだろう。
 校名は、定一が生まれる以前の一九二一年(大正十年)に、難波塩草尋常小学校と改称された。し/かし塩草地域では、昭和に入ってからもずっと「第五」と呼びならわされていたようだ。


 172頁4行めまで抜いて見た。なお、この小学校は同じ校地に現存しているが本書刊行当時、大阪市立塩草小学校であった校名は、その後「難波第二尋常小学校」であった大阪市立立葉小学校を統合したことで、大阪市立塩草立葉小学校となっている*1
 続いて173頁12行めまで、「その時代」の象徴として二宮金次郎像について解説がなされている。そして173頁13行めから司馬氏のエッセイに見える「運動場」について、14~15行め「児童らは「遊び場」/と呼んでいたらしい」として、174頁6行めまで『難波小学校百十年の栄光』の座談会「難波小学校を語る」から元教職員や卒業生の発言を引いて「レンガ」について解説している。
 そして174頁7行め~175頁4行めに赤マントに触れているのだが、今回は前半、174頁11行めまでを見て置こう。

「遊び場」の東、雨天体操場の裏に、南北に長い生徒用の便所があった。訓導(教員)用のトイレは、/校舎二棟それぞれの東階段横に設けられていた。生徒用便所は、冬の夕暮れどきなど、「赤マント」/が出現するというので、女生徒たちに随分と恐れられていたのだという。しかしそれが、その年(一九三〇年(昭和五年))の初冬に登場した骸骨男「黄金バット」ならば、児童に恐怖感を与えたのは納/得しにくい。黄金バットは、正義の味方だったからだ。


 この「赤マント」出現の記述は、典拠が示されていない。文脈からして座談会「難波小学校を語る」に、このような卒業生の発言があったのだろうと思われるが『難波小学校百十年の栄光』を見ないことには確定させられない。気になるのは昭和5年(1930)を「その年」と呼んでいることである。
 大阪で赤マント流言が流行った昭和14年(1939)6~7月よりも前に、単発で赤マントの話が発生していた学校があった可能性も否定は出来ない。しかしながらこれは、「その年」昭和5年にこのような話があったのではなくて、173頁6~7行めに「定一が小学校に通うのは、大恐慌の一九三〇年(昭和五年)から、二・二六事件が起こる三六年/(昭和十一年)までの間だ。‥‥」とある、司馬氏の在学期間の1年めに、以前からトイレに棲み付いてずっと出没していた(と延吉氏は思っているらしい)「赤マント」の噂に、司馬氏は初めて遭遇することになったはずだと考えて「その年」と書いたのではないか、と思われるのである。しかしこれも『難波小学校百十年の栄光』を見ないことには単なる憶測にとどまる。
 一度、大阪府兵庫県阪神間及び神戸)そして京都市辺りの図書館で資料を渉猟するべきであろうか。

難波小学校百十年の栄光 大阪市立難波小学校創立百十周年記念誌

難波小学校百十年の栄光 大阪市立難波小学校創立百十周年記念誌

 注文すればすぐに入手出来るのだけれども。(以下続稿)

*1:私はこの名称を合併させて存続させる方法には賛成しない。書類や学区・生徒は引き継ぐとしても、名前は綺麗に、隣の学校と混ぜたりせずに、歴史上の存在となってしまえば良いではないか。変な形で名前が残るよりも、純潔(?)を保って消えてくれた方が余っ程有難い。(※個人の意見です。)