瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(190)

田辺聖子『私の大阪八景』(9) タヌキ先生
 『田辺写真館が見た ”昭和” 』19章め「昭和の子供の夏休み」では、昨日の引用した箇所までで一旦中断して、195頁11~12行め、

 ――このお話は前にもある所へ書いたことがあるけれども、この、一見、かしこそうな/子供時代の写真を見て頂いた以上、この失敗談も再掲、ご披露すべきであろう。

と断っている。「ある所」とは楽天少女 通ります 私の履歴書のことであろう。「再掲」と云うこともあってか、全体に短くまとめてあるが、前回も注意したように「答案回覧」がこの「サディスト」教師の「企画」であったことになり、そして「読みあげ」も「悪い点をとると、皆の前で二度」と云う「意地わる」であったのが、「デキル子」にも平等(?)であったことに、変わっているのである*1。195頁13行め~196頁8行め、短いからついでにこの挿話の最後まで抜いて置こう。

 先生は採点後、教室で各自の得点を読みあげられる。いつも出来る子は得意気にうなず/き、いつもデキナイ子は、やっぱり出来ず、頭をかいたり、舌を出したりしている。私は/といえば、それまでの生涯、最悪の点。先生はそこで私を見てニヤリとされた。しょげて/いる私にトドメの笑い。サディストというゆえんである。
 それからの私、悪夢のようで生きた心地もない。母は毎日、試験の答案はいつ廻ってく/るの、と聞く。知らない、と嘘をつきつづけた。――しかしついに、それは私の家へもた/らされた。【195】
 母の怒りは私のそれまでの人生で最も強いものだった。母は試験の点が悪いことより、/私が嘘をついた、ということに怒ったのである。嘘ついたらあかん、嘘をつくのはいちば/ん悪いこと、とあれだけいうてるのに――と、声を励まして叱りつける。私は、〈ゴメン/ナサイ〉という声も出ず、わんわんと泣くばかり。
 時の氏神は、父ではなく、曾祖母――ばァばァ婆ちゃんであった。十何年来、出たこと/もない居間から、えっちらおっちら、と二階までやってきた。そうしてゼェゼェと息を切/らしつつ、母と私の間に坐り、〈まあまあ、そない、いわんかて、まだ小さいのやし〉と、/母をなだめ、私のあたまを撫でてくれた。


 やはり、つくづく人間の記憶は当てにならないと思う。可能であれば、例えば『全集』別巻1の「年譜」作成時にでも詰めて欲しかったのだが、しかし田辺氏にしてもどちらが本当らしいか、と云った判断しか出来なかったであろう。私のような人間はどちらが本当らしい、と決め付けて片方のみを採るなどと云う、大胆な振舞は出来そうにない。保留付き、両論併記で行くことしか出来ない。そこで長々と楽天少女 通ります 私の履歴書『田辺写真館が見た ”昭和” 』を並べて見たのである。
 随分回り道をしてしまったが、次回から赤マントの記述の続きに戻る。赤マントについても、この小説に書いたことがほぼ全てで、仮に最晩年の田辺氏に「実際のところはどんな按配でしたか?」と聞けたとしても、その答えが正しいかどうかは分からない。だからせいぜい遺された小説に、私に出来る限りの検討を加えて見たいと思うのである。(以下続稿)

*1:いや「デキル子」も1度は「読みあげ」られたのかも知れない。1度で良いのに「二度」言うのが「意地わる」なのだ、と。