瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

伊藤正一『黒部の山賊』(2)

 昨日の続きで①初版、②新版、③定本、④文庫版の関係について、まづ①初版②新版の関係を確認して置こう。
 と云って、昨日も述べたように私は①を見ていない。
 しかしながら、②を見るに、装幀は昨日示したように違っているが、本文1~223頁は①をほぼそのまま覆刻しているらしい。224~226頁(頁付なし)の「新 版 あ と が き」と違って古い活字で、かすれたところがある。
 「新 版 あ と が き」には①初版との関係について、最後(226頁6行め)に、

 新版にあたっては、文章には手を加えず、写真もほぼ元の物を用いた。

とあって、ざっと見たところ、象嵌訂正したところもなさそうである。写真は、ゴシック体のキャプションは本文に同じく①のままらしいのに図版は覆刻版にしては鮮明で、関連書『伊藤正一写真集 源流の記憶 「黒部の山賊」と開拓時代』にその多くが載っているところからして、元の写真を用いて新たに製版し直したものらしい。それが「ほぼ元の物を用いた」と云う書き方になっているのであろう。
 なお、この「新 版 あ と が き」は③④に引き継がれていないので、もう少し内容を確認して置きたい。冒頭部を抜いて置こう。224頁2~7行め、

 本書の初版本が発行されたのはちょうど三十年前の一九六四年であった。その前年に倉繁が中風で亡く/なり、その後富士弥は一九六八年に、また林平は一九七四年に世を去った。
 林平は亡くなる少し前に、虫が知らせたのだろうか、三俣にいた私に鬼窪を通じて、会いたいと伝えて/きたが、会えないうちに彼は亡くなってしまったのが心残りである。
 いちばん若手だった鬼窪だけが八十才で今なお健在である。近年彼は「最後の名猟師」とか「山賊の生/き残り」とかいわれてしばしばマスコミに登場してくる。今でもシーズンに一度は黒部源流を訪れるし、/毎年秋から冬にかけては里山で猟を続けている。


 倉繁の死についてはもちろん①(=②)の本文にも記述があって、205~220頁「その後の山賊たち」の章(③183~195頁「Ⅶ その後の山賊たち」④259~275頁「第七章 その後の山賊たち」)の2節め、212頁7行め~220頁10行め「その後の山賊たち」(③188頁7行め~194頁11行め・④266頁11行め~275頁15行め)の4項め、215頁14行め~217頁14行め「さびしく死んだ倉繁」(③191頁7行め~192頁19行め・④270頁12行め~274頁1行め)の最後(217頁7~14行め)に、

‥‥、彼\は焼酎を飲/みすぎて、中風にな|って寝込んでしまった。彼の枕元には三俣小屋の前で\皆*1で撮った写真がい/つも置いてあった。彼はその|写真をながめては、
「俺はいつまたあの山へ行かれるようになるだろうかなあ」
と三俣のことばかり口にしていた。*2
 新潟県生れ*3の彼にとっても、黒部源流は心の故郷であり、そこで暮らした数々の思\い出は胸の/底深く|焼きついて、何よりも離れえぬものであったに違いない*4。【④272】
 倉繁は昭和二十八年に死んだ。彼の二人の娘は成長して孫まである。

とある。③192頁12~19行め(改行位置「|」)と④272頁9行め~274頁1行め(273頁は写真、改行位置「\」)の改行位置も記入した。
 さて、本文には倉繁勝太郎が昭和28年(1953)に死んだ、とあるのだが「新 版 あ と が き」には①初版刊行の「前年」昭和38年(1963)とある。どちらが正しいのだろうか。「前年」には誤植の可能性はない訳だが「昭和二十八年」には「昭和三十八年」の誤植の可能性がある。ただ「前年」と云うのが30年後の記憶違いと云うか、計算違いと云うことも、あろうかと思うのだけれども。(以下続稿)

*1:③④「みな」。

*2:④はこの行、1字下げ。

*3:③④「新潟生まれ」

*4:③④「なにより‥‥ちがいない」